月世界出張

「ねえねえ、おじさんは地球人?」

 宇宙港のそばにある小さな喫茶店の、月面を一望できるカウンター席に座っていたら、声を掛けられた。「地球人」と呼ばれたことが新鮮だったことと、振り返った所にいるウェイトレスが、背が高くスタイルのいい美人だったことに、更にどきりとする。

「あぁ、そうだよ」

「へぇー、観光ですか?」

「仕事だよ、仕事」

 私の働く会社の支社を月面に作る計画があり、その下見にやって来た。現地の人との打ち合わせや、立地確認などが主だが、ほとんど観光みたいな仕事だ。地球では忙殺されるのではないかと思っていたが、いい息抜きになった。月面クレーターを利用した、静かな海市なんかは割と開拓されていたし、月面の低い重力を利用したスポーツの観戦も、かなり興奮した。

 低重力で行われている、ラグビーともサッカーともアメフトともとれないスポーツは、ふわふわとしていて、スピード感があるんだかないんだか判然としなかったけど、初体験で面白かった。月への移住が進んで来て、こちらには新しい文化がある。まさに、日進月歩だ。

「あっ、ご注文のコーヒーです」

 ウェイトレスが、コーヒーを置いた。コーヒーは、月でも焦げ茶色の色をし、温かそうな湯気をあげている。口元に運ぶ。香りも味も、地球と同じだ。

「月に行ってこいって上司に言われた時は驚いたし、抵抗があったけど来てよかったよ」

「抵抗ですか?」

「ほら、やっぱり、宇宙旅客機に乗って、地球を離れて月へ行けっていうのは、やっぱり少し恐かったんだ。まだ宇宙での事故はないけど、宇宙空間で死んだらどうなるんだよ? とか思っちゃって。それに、月は地球とは結構違うなんて噂もよく聞くからさ」

 月では、得体の知れない麻薬のようなものが流行っているであるとか、宇宙人が紛れているとか、地球人差別もあるんじゃないか、なんて同僚に散々脅されたが、取り越し苦労だった。

「月はどうですか?」

「意外と、悪くない。それどころか、地球よりずっといいと思うよ。月はまだ、人が多くないしね。地球の渋谷なんて、最悪だ。もう、人が多くて歩けたもんじゃない。ここには、ああいう騒がしさがない」

 私がそう答えると、ウェイトレスはふふんっと鼻を高くし、胸を張った。お国自慢をしたい、というのは月の人も同じらしい。いや、お星自慢、なのだろうか。

 脇に置いてある、お土産の詰まった紙袋を見る。月煎餅に、月饅頭、「月に行ってきました」と書いてあるクッキーなどを買い込んだ。地球に帰りたくねぇなぁ、と胃の底の方がざわつく。

 月はなんとなく、長閑だ。大気がないので、カプセル状に覆われている建造物の中でしか暮らせないが、それでもいい。

 地球から見える月は黄金色に輝いているけど、あれは太陽の光なんかを反射しているだけで、月自体が輝いている訳ではない。月面自体は灰色で、無機質的というか、荒涼としている。でも、地球のような雑多な感じはなく、なにもないことを開き直る潔さを感じ、好感が持てる。

 月の人は重力が弱いからなのか、とても大らかだ。現地を案内してくれた人や取引先も、ケンケンしてないし、ビジネスビジネスもしていない。「頼み事? いいよ」と快諾してくれる心優しい人々だった。

 地球からメールが届き、こちらの都合でスケジュールや予算を調整しなければならず、急なお願いで申し訳ないなと思いながら、おそるおそる提案をしたのだが、「あっ、そうなの? ちょっと大変だけど、がんばってみるよ」とにこやかに言われた。かと言って、それで後から何かを要求してきたりもしない。損得勘定の、「そ」の字も無いのか、と驚嘆した。

 何かに似ている、と思ったら、自分の住んでいた田舎に似ている。長野県の山奥にある小さな村で、みんなが大らかで助け合うことに抵抗がない。餅つきや夏祭りのイベントに参加したり、迷子を探したり、野菜の収穫を手伝ったことを思い出す。

 カウンターに座っている白髪のマスターは、頬杖を突きながら、テレビ中継されているスポーツを眺めていた。ここが地球だったら、接客態度云々とクレームがきてしまうだろう。

「月にきた地球の人が、ガッカリして帰っていくって言われて、ショックだったんですけど、よかったです」

「ショック?」

「なんだか、SF映画? みたいな世界を期待してくるみたいで。前に来たお客さんは、車は飛ばないのかってガッカリしてました」

「あぁ、そういうのは、確かになかったな」

 だが、むしろ、月のいい所はそういうSFチックな所ではなく、のんびりとしている新しい場所、というところではないだろうか。三十八万キロも離れた場所まで来て、何故せかせかしたいのだろう。

 アポロ計画から、もう何年経ったのか。月面への移住計画で、アメリカが、「まず、月にはメリカが行くからちょっと待って」と他国を牽制していたから、実際にあの時に月面に行ったのかは怪しいが、それでも、昔から人間は月に憧れを抱き、ついに月に住むようになった。

「この、のんびりしている所がいいのにな」

「おじさん、いい人!」

 ウェイトレスがぴょんぴょんと跳ね、はしゃぐのを見て、苦笑する。見かけの割に言動が幼く、可愛らしい。

「地球は、面倒なことが多いからね、本当はあんな所に帰りたくないよ」

「地球には、面倒なことが多いの?」

 その質問を聞いて、失笑してしまった。面倒なことが多いか? 愚問だ。

「たくさんあるさ。仕事を押し付けてくる上司とか、自分のミスを私のせいにする先輩とか、電話もメールも返してくれない担当者とか、働いてるとたくさんあるよ。出張だって、本当は上司が行くはずだったんだけど、飛行機乗るのを恐がる人だからね、自分が嫌だから私に押し付けたんだ。会社もそうだけど、家も大変だ。妻が家事を分担してくれないし、犬の散歩にも行かないし、出張に行くのを一々浮気してるんじゃないかと疑ってくる。あとは、これから子どもの受験もあるしなぁ」

 言葉にしながら、気分と身体が沈んでいく。折角、月まで来ているというのに、現実にしがみ付かれて重力がはたらき、地面に落とされていくような錯覚を覚える。

 月は、重力が六分の一だからか、のんびりとしている。本気でここに残りたい、と強く思い始めていた。仕事を辞め、田舎暮らしをしたい、と思うのに似ているのかもしれない。

「それは、どの辺で起こってるんですか?」

 彼女が、窓の外を指差した。

 指差した先に視線を移すと、そこには荒涼とした灰色の月面と暗たんとした宇宙空間が広がっていた。そんな中で、丸く、青い星が浮かび上がっている。

 え? と困惑しながら、地球をまじまじと見る。日本は、どの辺りだろうか。と言うか、今見えている大陸はどこだろうか。ビー玉の柄のような雲が、もやのようにかかっていてよくわからない。

 言葉と答えが見当たらず、しどろもどろしていると、カウンターに座っているマスターが豪快な笑い声をあげた。私の困惑を吹き飛ばすような、笑い声だ。何事かと見ると、笑い過ぎて涙が出てしまったらしく、ひぃひぃ言いながら目をこすっていた。

「お客さん、すまないね。まだ、小さい子の質問だからさ、流してくださいよ」

「小さい?」

 誰のことだ、と思いながら、ウェイトレスに訊ねようと視線を移すと、彼女は頬を膨らませ「子ども扱いしてー」とむくれていた。

 ますます訳がわからない、と思っていると、「孫が、すまないね。月の子だから、背が高いんだ。まだ小学生だから、変な質問をしてしまって、悪いね」とマスターが頬をほころばせた。

「月の子?」

「重力が弱いから、背が高くなるんだよ」

「あっ、え?」

「おじいちゃん、静かにしてて! 地球のことを調べる宿題があるんだから。ねぇ、おじさん、地球の面倒なことは、どの辺で起きてるの?」

 混乱しながら、視線を地球に戻す。

「あっ、えっと、あぁ見えないね」

 小さすぎて見えないなあ、と苦笑する。世界は、宇宙は広いし……

「それにしても、青い星だな」


(了)

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