「クビキリ」(初稿-7)
7
壁に取り付けられている、インターフォンのモニターを見て、殺人鬼が僕を探しにやって来たような戦慄を覚えた。
そこには、柔和な表情の森巣が写っている。何故、森巣がここにいるのか。もしかして、瀬川さんに『森巣の知り合いのことをまだ信じない方がいい』と言ったことに怒り、僕を探していたのだろうか?
隠れても無駄だ、僕がここにいることはお見通しだとでも言うように、再びピンポーンと音が鳴る。
柳井先生が通話ボタンを押し、「はい、柳井です」と返事をする。
「あの、突然押しかけてしまい、すいません。湊一高二年六組の森巣です」
柳井先生が僕を見て、「呼んだのか?」と訊ねてきた。首を横に振る。
「森巣か、どうしたんだ? 突然こんな時間に」
壁の時計を見ると、もう夜の七時を回っていた。
「実は、先生にご相談したいことがあるんです。ちょっとお時間頂けませんか?」
柳井先生がモニターから視線を外す。森巣の突然の訪問に意表を突かれたのか、柳井先生も動揺しているようだ。しばし逡巡するような間を置いてから、
「今開ける」
と玄関へ向かった。
自分の心臓が不安から、バクンバクンと動き回っている。もうすぐ森巣がやって来る。リビングの扉を睨みながら、落ち着け、落ち着けと思いながら周囲を見る。机の上の文具コーナーにカッターナイフやハサミがある。いざとなればこれを構えて、牽制はできるだろうか。
でも、僕にそんな勇気があるのか?
立ち向かう覚悟があるのか?
そう思った瞬間、扉が開き、森巣が現れた。
「あれ? 平じゃないか。どうして?」
森巣が僕を見て、目を見開く。白々しいぞと思いつつ、やあ、と手をあげてみせる。
「森巣こそ、どうしたんだい? それもまだ言えない?」
「いや、瀬川さんに教えてもらったんだよ。近所みたいだし、先生の住所を知ってるかなと思って」
「どうして柳井先生の住所を?」
「それはまだ言えない」
はぐらかされ、むっとする。キッチンから柳井先生の「森巣もお茶でいいか?」という声が飛んできた。
「すいませーん、おかまいなく」
森巣が返事をしながら、僕の隣の席に腰掛ける。ぴりりとした緊張感が皮膚を走った。
「それで、平はどうしてここに?」
「さっきあの袋小路に戻ったら、柳井先生に会ったんだ。えーっと、それで、ちょっと相談したいことがあったから、お邪魔したんだよ」
「相談したいこと?」
「進路のこととか」
進路相談ねえ、と森巣が他人事のように、いや、他人事ではあるのだけれど、興味がなさそうに呟いた。
森巣は僕のことを侮っている。僕はもう事件の真相に気づいているし、君を追い詰めているんだぞ、という対抗心が湧いてきた。
「足りないのは勇気」
森巣は僕に対してそう言った。
森巣は油断し、僕が立ち向かってくるなんて思ってもいないのだろう。今なら柳井先生もいるし、森巣の化けの皮を剥げるのではないだろうか。
「ちょっと森巣の意見を聞かせてもらいたいんだけど、いいかな?」
「もちろん、俺でよければ」
ごくりと唾を飲み込み、口火を切ろうとしたとき、
「ほい、森巣の分」
と柳井先生がティーカップを持って戻ってきた。カモミールティーの優しい香りが湯気となってふわりと漂う。「ありがとうございます」と森巣が受け取り、香りを楽しむように顔の前でカップを掲げた。
「家に生徒が二人も。俺も人望のある教師になったもんだなぁ。でもすまん、ちょっとトイレに行ってくるから待っててくれ」
そう言って柳井先生がリビングを出て行く。先生、森巣を問いただすから一緒にいて下さい、そう思ったけど言葉にはできない。
「それで?」
森巣がじっと僕を見て尋ねてくる。
「いや、ちょっと待って」
「ま、いいけど」
口調から、「一人じゃ何もできないの?」と試されているような気がした。
気を落ち着かせようと、カモミールティーを一口飲む。お茶のリラックス効果のおかげか、さっきまで跳ね回っていた心臓が、少し落ち着いている気がする。
僕は困っている瀬川さんと、瀬川さんの犬を助けたい。
対決だ。
「森巣、あの袋小路で犯人がどっちに逃げ込んだのかわかったよ」
「え、本当に?」
「うん、左の家には犬がいたんだ。ちょっと覗いただけで吠えられたから、逃げ込むなんて無理だろうね。つまり、犯人は右の家に逃げ込んだことになる」
「なるほど。だけど、犬の鳴き声が聞こえなかったことはどうなるの?」
「犯人は一人じゃなかったんだよ。犬を待ち受けている人がいたのさ。つまり、あの家の住人も共犯者なんだ」
「なるほど、放り投げられた犬を捕まえて、口輪をするなりして、黙らせた、と」
「その通り。で、そのことを森巣は知っていたんじゃないの?」
やっと森巣は自分に疑惑の矛先が向いていたことに気付いたようだった。目を瞬かせ、きょとんとした顔をする。
いよいよ核心だ、と僕は畳み掛ける。
「森巣、君が犯人の一人、クビキリ犯なんじゃないのか?」
どうなんだ? とじっと観察する。
森巣の眉がぴくりと動き、表情が強張る。それは、動揺よりも、怒りが沸き起こり、波打ったかにょうに見えた。
殺気立ったものを感じた。空気が張り詰めた。瞬間、森巣の発する雰囲気に飲まれたような気持ちになり、息もできないようなプレッシャーを覚える。
一体これはなんだ? そう思って森巣を見る。
森巣の表情がゆっくりと戻り、うっすらと笑みを浮かべた。ふっと部屋の中の空気が緩むのを感じる。
「やっぱり君が」そう言おうとしたところで、森巣が、先に口を開いた。
「どうして、そう思ったんだい?」
体温や感情の読めない、平坦な声色だった。だけど、動揺しているのか、森巣の右手の人差し指が、こつこつとテーブルを叩き始めている。
「犯人は二人いる。そして、マリンちゃんに賞金がかけられていることを知った。さっき、瀬川さんから連絡がきたよ。森巣はマリンちゃんの無事を知っているから、賞金を更に釣り上げたんじゃないのか?」
「あれは、知り合いに動いてもらう為だよ」
「それだけじゃない。第三のクビキリが見つかった小学校で先生から話を聞いたんだ。飼育小屋の兎、森巣が第一発見者らしいじゃないか。君はクビキリを知らないと僕に嘘を吐いていた」
森巣が第一発見者になった理由は、大切な動物が殺され、それを見つけた人の顔を一番近くで見るためではないだろうか。猟奇的な事件の犯人は、自己顕示欲の強い人が多いと聞く。だから、動物の死骸だけではなく、自分も目立ちたいと思ったのかもしれない。
こつこつと動く、森巣の右手が止まった。
目と目が合う。
怒りで表情が険しくなるのでないか、と身構える。
が、森巣は目を細め、困ったように笑い、両手を合わせて「ごめーん!」と茶目っ気のある声をあげた。
「そりゃ疑われて当然だよな。知らないふりをしていた俺が悪かった。本当にごめん!」
森巣は合わせた両手の脇から、ちらりと申し訳なさそうに僕を見る。シラを切り通されるか、悪態をつかれるのではないかと思っていたので、この反応には虚をつかれた。いや、こっちこそごめん、と言いそうになる。
だが、ごまかされないぞ、とまだ警戒を解かないように踏みとどまる。
「どうして知らないフリとか、嘘を吐いてたの?」
「クビキリ、嫌な事件だろ? だからずっと個人的に調べていたんだ。職員室で平が犯人を見たって話が聞こえてきたときは驚いた」
「うん、まあ、驚くよね」
「で、詳しく話を聞きたいと思った。だけど、平は話してくれるかな? と不安になったんだ」
「どうしてさ」
「学校でクビキリの発見者がいる、っていう噂は聞かなかった。つまり、自分が発見者だ、って吹聴するタイプじゃないんだろうなと思ったんだよ」
確かに、僕はクラスメイトにも話をしていない。うん、そうだね、と頷く。
「体験談を聞かせてよと言ってくる見ず知らずの生徒、野次馬にしか思えないだろ? そんな奴を相手にしてもらえるか不安だったんだ。ならいっそ、全部知らないフリをすれば、危ない事件が起きてるから注意をした方がいいよ、って丁寧に教ええてくれるんじゃないかと思ったんだよ。本当にごめん!」
そう言って、森巣が深々と頭を下げる。話を聞きながら、もし、と考える。もし「クビキリの犯人見たんだって?」と言われたら、話をするだろうか。不愉快な情報の伝播、それはクビキリ犯の狙いの気がして、きっとしないだろう。
無邪気で無防備に見えた森巣にだからこそ、詳しく話をした気もする。
なんだあ、と自分の体が脱力していくのがわかる。
「でも、嘘を吐かなくてもよかったのに」
「本当にごめん! だけど、犬はまだ無事だと思うよ」
「なんでそう思うのか、そろそろ説明してくれないかな?」
「それはまだ--」
「ちょっと一方的すぎない? 僕も喋ったんだから、森巣もそろそろ喋ってくれないかな?」
すると、森巣はわかったよ、と観念した様子で肩をすくめた。
「殺された動物は猫が三匹に、兎が一匹。猫は野良猫かもしれないし、飼い猫かもしれない。だけど共通点がある」
「共通点?」
「小学校で兎の名前を聞いた?」
「聞いたよ。確か、パランだった」
「パランっていうのは、韓国語で青って意味なんだよ。白い兎なのに、なんで青って名前なんだと思う?」
「そんなこと」わからないと言いかけて、はっとした。瀬川さんの犬の名前も、マリンだ。森巣が自分の目を指差している。
「そう、目だよ。右目だけ青かったから、パランにしたらしい。犯人は、オッドアイの動物を狙ってやってるんだ」
「僕の見つけた白猫もオッドアイだった!」
「一匹だけ確認できていないけど、四匹がオッドアイ。偶然、とは思えないだろ?」
確かに、そこには何か意味があるように思える。うんうん、と力強くうなずきかえす。
「で、なんで瀬川の犬が生きてると思うのかに戻るんだけど、動物を殺したいと思ったとき、オッドアイの動物を探しても、すぐに見つかるとは限らない。だから、盗んできてしばらく飼育してたんだと思うんだよ」
「小学校の兎は、発見までに一週間かかった。だから、マリンちゃんもすぐに殺される可能性は低いってこと?」
「そういうこと」
なるほど、納得だ。僕が右往左往している間に、森巣はそこまで見抜いていたのか。競走をしているつもりはなかったけれど、ずっと前を森巣が走っていたのか。嫉妬よりも、隣にいなかったのかという寂しさを覚えた。「ごめん。疑って悪かった」
「いや、いいんだよ。こっちこそ、本当にごめん」
謝ることはないさ、瀬川さんの犬の為だ。
だけど、問題はまだ解決されていない。
「じゃあさ、森巣、あの袋小路から犯人はどうやって消えたんだろう?」
「無理だね。そもそも、人間も犬も消えるわけがない」
「右の家に逃げ込んだんだと思うんだけどなぁ」
「平、犬はあの曲がり角で拐われてなんかいないよ」
森巣が何を言い出したのかわからず、困惑する。
「ちょっと待って、マリンちゃんは拐われてないっていうのか?」
「いや、拐われてはいる」
「ごめん、森巣が何を言ってるのかわからない」
もはや、森巣がどこを走っているのかもわからない。いつまで経っても教科書の同じ問題でつまづいている生徒を諭すように、森巣が「説明するからよく聞いてくれ」と優しく話し始めた。
「瀬川は犬を奪うくらい思いっきり突き飛ばされた。掛けている眼鏡は外れてしまうだろ」
「うん」
「なのに、瀬川は犯人の逃げた先も、パーカーの文字まで覚えていた、これはおかしくないか?」
瀬川さんの眼鏡は結構度が強そうなのは見ていてわかる。眼鏡を外すと、話している相手の顔も見えない、と言うタイプだ。
「眼鏡は外れていなかったのかもしれない」
「可能性としてはあるね。でも、それだけじゃない。平と別れてから、ちょっと裏を取って来たんだ」
「裏?」
「犬を拐われた日は、瀬川の妹の誕生日だった。あのカフェで妹の為のケーキを受け取っていた」
「うん、そうみたいだったね。三田村さんと話していた」
「ケーキを取りに行ったのは五時頃だったそうだよ」
森巣がそう言って、説明を止めた。
ん? それで? と視線で尋ねる。
「犬の散歩の時間と被っている」
「それのどこがいけないの?」
「その時、犬は何処にいたんだろうね?」
どこにいたのか? と首をかしげると、思考の整理するのを手伝うみたいに森巣が解説を続ける。
「犬が拐われた後、呑気にケーキを受け取って家に帰ると思うかい? 拐われた後にケーキを受け取りに行ったんだとしたら、三田村さんは事件のことを知っているはずだ。だけど、三田村さんは事件を気にかけている様子はなかった」
「つまり、犬が拐われる前にケーキを受け取っていた、と。でも、散歩中だったんでしょ? 犬はどこに行っちゃったの?」
「店のそばの電柱にでも繋いでいたんだろうな。そして、その間に拐われたんだ。それが真相だよ」
犬の散歩中に、犬を店の外で待たせて、ケーキを受け取る。森巣の言うことはわかった。わかったけど、わからない。
「なんで、瀬川さんは突き飛ばされたとか、拐われたとか、そんな嘘を吐く必要があるわけ? 普通に、ケーキを受け取っている間に盗まれたって言えばいいじゃないか」
森巣がじれったそうにかぶりを振り、「平」と僕の名前を呼んだ。
「何故嘘を吐いたのか。簡単な答えさ」
勿体をつけずに教えてほしい、と僕は身を乗り出す。
「保身だよ。自分を守る為に、嘘を吐いたんだ」
「自分を守る為?」
「平は瀬川のことを、真面目で、みんなに優しい清廉潔白な委員長、そういう風に思ってないかい?」
瀬川さんはまさしくそういう人じゃないか、と思いつつ、頷く。
森巣が、テーブルの上にあったバナナホルダーにかかっているバナナを一本むしった。人の家のものを勝手に! と思ったけど、森巣はそのバナナをこちらに向けながら「きれいは汚い、汚いはきれい」と口にしながら回転させた。
こちら側から見えたバナナは健康的に黄色かったが、向こう側から見えるバナナはいたみの所為で茶色く変色していた。
「イメージだけが全てじゃない。瀬川も人間だ。暗い側面を持っている」
森巣はそう言ってバナナの回転を止めて、そっとテーブルに置いた。
「瀬川さんも嘘を吐く人だということはわかった。でも、何から自分を守ろうと思ったんだろう?」
すると森巣は、呆れた様子で苦笑した。「本気で言っているのかい?」
「本気だけど」
「この町には、動物の首を切るような奴がいることを忘れてない?」
想像してみてくれ、と言わんばかりの強い視線を受け、頭の中で考えを巡らせる。もし、僕が瀬川さんだったら、と。
クビキリ事件が起きているような町で、犬を一人にするのは、無用心だ。そんな自分の不注意のせいで大切な犬が拐われたことが家族にバレたら……年の離れた妹は「お姉ちゃんの所為だ」と泣き喚くかもしれないし、両親からも非難される日々が待ち受けているかもしれない。
「だけど、被害者になれば同情される」
「そういうことだね」
袋小路で、取り乱し、泣き崩れていた瀬川さんの姿を思い出す。あの時瀬川さんは、自分の中の罪悪感とクビキリに家族が殺されてしまうかもしれないという恐怖に震えていたのだ。
「袋小路で犯人と犬が消えた、という奇妙な演出をしたのは、賢いと思う。人はムキになって謎に挑もうとするだろうからね。それに、犯人の逃走経路を考えなくてすむし、目撃者が他にいないこともカバーできる」
自分はまんまと、その策にはまり、どうやって犯人と犬が消えたのかばかり考えていた。
「パーカーの文字を見たっていうのは?」
「それは平の訊き方が悪かった。平が犯人は『XXXXってマークが入ったパーカーを着た奴だったか?』って訊いたから、瀬川はそうだと答えたんだ。瀬川から言い出したわけじゃないんだろ?」
そこに瀬川さんから犬が拐われたことを聞いた日のことを映し出すように、天井を見上げる。
確かに、僕が質問し、瀬川さんは同意したのだ。
「僕は誰の役にも立てなかったんだなあ」
弱音がぽろりと口からこぼれてしまった。助けようと思って空回り、事件をややこしくしているだけだ。前進しているつもりでいたけれど、実際は解決の為に一歩も前へ進めていなかった。
瀬川さんの嘘、犬の失踪の真相、オッドアイを狙った犯行、森巣はどんどん前へと進んでいた。
「人間も狙われる、ってことはないよね?」
「どうして?」
「さっき気がついたんだけど、柳井先生もオッドアイなんだよ。もし人間も狙われていたら、危ないなと思って」
「そうなんだ……でも、人間は狙われないんじゃないかな」
「どうして?」
「去年、人間が一人首を切られて殺されている。だけど、彼女はオッドアイじゃなかったよ」
「去年もあったんだ!?」
「吉野《よしの》みすずっていう女子大生が殺されている。覚えてない?」
眉根に皺を寄せ、腕を組み、去年のことを思い出す。だけど、去年もたくさん陰惨な事件があった。森巣の「花屋の」とか「八景の海岸で見つかった」という言葉が、頭の中の記憶を呼び覚ます。
「あった!」
頭だけが海岸で見つかったこともさることながら、マスコミが遺族の経営する花屋に押しかけ、カメラやマイクを向け、「娘さんが殺害された気持ち」や「物騒な事件に巻き込まれるような危ないことをしていたのではないか?」と無神経なことを質問していて、辛い思いをしているんだからそっとしておいてあげてよ、知る権利とはなんなのか、と辟易としたのを思い出した。
社会では、他にもたくさん陰惨な事件が起きている。誰かが虐げられ、誰かの命が奪われ、ニュースで毎日のように流れてくる。見たくないもの、知りたくないものとして、僕は記憶の隅に追いやり、忘れてしまっていた。
そう言えば、森巣は僕にクビキリのことを調べていると言っていた。その理由は何故だろうか。僕は瀬川さんの為だけど、森巣がクビキリを追う理由がわからない。
「平は目が良いね。でも、ちゃんとわかっていない」
森巣がそう言って、にやりと笑う。
つづく