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クビキリ(2稿-18)

       18

「今までに殴られたことはあるか?」

 森巣が突然尋ねてきた。
 何を言い出すのか、と訝しみながら、十六年感の人生を回想し、「ない」と僕は答える。

「本当の自分になりたいんなら、死を感じることだ。手始めに痛みを知っておけ」

 そう言われ、右の頬を殴られた。口の中が切れ、鉄に似たしょっぱい血の味が広がった。痛みに頭が痺れ、視界と共に脳が揺れる。何が起きたのかわからない恐怖と共に、何をするんだ、という怒りが巻き起こる。なんなんだ、一体?

「今日、自分が死ぬかもしれないと思うんだ」

 混乱しながら、頭にあった言葉を掴んで投げる。

「……は、悪い奴なのか?」

 口の中が切れているから、呂律が回らず、ちゃんと喋れない。

「いいか? 人間は元々、悪だ」

 森巣の言っていることが理解できない。突然殴ってくるなんて、どうかしている。
 僕はどうすればいい?
 決断を迫れるときには時間がない。カウントダウンもされない。いざという時に、動けるかどうかだ。周りを観察しろ、頭よ働け、体よ動け、と力を込める。
 彼の言う通り、人間が悪であるとしても、自分の正しさを見失うわけにはいかない。

「その痛みを覚えておけよ」

 そう言って森巣は左手の手のひらを僕に向けた。そこには横一文字に、ミミズ腫れのような線が浮かび上がっている。もう治っているが、いつできた傷跡だろうか。痛々しくて、ぎょっとする。

 森巣はやっぱりおかしい。

 恐怖心と殴られたせいで、ぐわんぐわんと目眩がする。人を傷つけるのは初めてだ。だけど、対決しなければ。テーブルの端にあるハサミにそっと手を伸ばそうとする。

「いいか、大人しくしてろよ、悪いようにはしない」

 森巣がそう言った直後、リビングの扉が開き、「お待たせお待たせ」と柳井先生が戻ってきた。生徒二人の間に漂う剣呑な雰囲気に気がついたのか、「どうした二人とも」と言って向かいの席に着いた。

「なんでもありませんよ。平の話を聞いていたんです」

 森巣が微笑んで僕を見たけど、目は笑っていなかった。「大人しくしていろ」と釘を刺してきたのだとわかる。僕は情けないことに、射竦められてしまった。柳井先生に「森巣に殴られたんです」と教えたいのに、体が動かない。心臓だけが緊張して動き回っているのがわかる。

「なんの話をしてたんだ?」
「平の進路相談ですよ」
「ああミュージシャンになりたいってやつか。うちは軽音部がないから、そういう生徒を受け持つのは初めてだなあ。森巣は何になりたいんだ?」
「俺はまだ何も決めてないですよ」

 のんきに世間話をしている二人を見ながら、はっとした。
 僕は犯人が一人ではないと考えていた。それは間違っていないのではないだろうか。
 森巣は犬が生きていると考えている。それは、犬が生きていると知っているからじゃないのか? 犯人の片割れ説はまだ生きている。

「平は目が良いね。でも、ちゃんとわかっていない」

 森巣はさっきそう言った。
 この家は広い。動物を一時的に飼育することができるガレージもあるし、屍骸を埋めることができる庭もある。

 森巣と柳井先生が犯人だったんだ。
 大人しくしていれば、命は取らない、森巣は僕にそう言ったのではないか。

「柳井先生はどうして先生になったんですか?」
「さっきも平に話をしたんだが、人生というのは、自分の持っているものを他人に与えることで幸福を得られる、それが俺の人生哲学なんだ」
「へー、与えることですか」

 森巣が感心するような声をあげる。僕はこの茶番に付き合っている暇はない。ここからどうやって逃げるかだけを考えろ、と頭の中で言い聞かせる。だけど、口の中のじんじんとした痛みが、思考の邪魔をしてくる。

「それで、先生はクビキリで何を与えたかったんですか?」

 森巣が柳井先生を挑発するような口調で尋ねた。
 森巣、君は何を言っているんだ? 二人はグルなんじゃないのか? と混乱する。
 柳井先生を見ると、虚を突かれた様子で、目を丸くしていた。

「ここにある白いテープで、Xってパーカーに貼っていたんですか? そうすれば目撃者はパーカーの話ばかりするでしょうからね」

 森巣がテーブルの脇に置いてある白い布テープを手にして、検分するように眺めてから衣類の溜まったカゴに放った。そこの一番上には無地の黒いパーカーが無造作に置かれている。
 おそるおそる、柳井先生を窺う。

 柳井先生が目を細め、ゆっくりと口角を上げる。

「絶望だよ。俺の絶望をみんなに分け与え、俺は幸福を得ているんだ」

 柳井先生がにんまりと笑う。目尻から、口元から、邪な感情が洩れ出ているような笑顔だった。

「俺はパイロットになりたかったんだけど、酒癖の悪い父親に殴られてね、右目が悪くなってしまった」

 柳井先生がそう言って、右目を優しく労わるような手つきで撫ぜる。

「オッドアイの動物、俺は俺を殺していたのさ。俺は目を悪くした日に死んだも同然になった。クビキリで、自分の死を、未来を奪われた者の絶望を、みんなに分け与えているんだよ。それが俺の幸福であり、生きている実感だ」
「そんなものを与えられることを、みんなは望んでいない!」

 思わず、僕は声を荒げていた。
 柳井先生の顔が冷たいものに変わる。
 感情やぬくもり、人間らしさを失った顔をしていた。

「先生の言うことは、下らない詭弁だ、自己満足だ、動物を殺す変態だ」

 勇気が欲しかったら、欲望に忠実になれ、と柳井先生は僕に言った。その教えに従って僕は行動をしたのに。裏切られたことで、心が切り裂かれ、血の代わりに悲しみが溢れ出た。
 柳井先生は左手を机から離し、ゆっくりと自分のこめかみに持って行った。

「よく効いているようだな」
「え?」
「GABAという物質が人間の脳内にはある。中枢神経を抑制する、有名な脳内神経伝達物質だ。体内に、ベンゾジアエピン系薬物が取り込まれると、ベンゾジアエピン受容体に結合する。すると、GABAの受容体であるGABA Aがノルアドレナリン神経系、セロトニン神経系、ドーパミン神経系の働きを抑える。これにより、脳内の活動はどんどん落ち込んでいく」

 眠たくなるような話を長々と始められて困惑していると、柳井先生は「どうだ? 眠くなってきたか? 身体が動かなくなってきたりしないか?」と続けた。

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如月新一
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