100万円ゾンビ(初稿−12)
12
僕と彼の間には、見えない壁がある。彼は、透明の壁の存在に気づくと目を剥き、そしておかしいな、とドンドン叩いた。回りこめるのではないか、と壁に触れながら移動してみても、終わりが見えてこない。
どこまでもどこまで、永遠に見えない壁が続く。
遠くからでは白塗りの顔に赤いつけ鼻、くらいしかわからなかったけど、目の前に立つと瞼の上から縦に引かれた線や、頬に描かれたハートと右目に涙のマークが見え、メイクにも気合が入っていたんだなと感心してしまう。
桜木町の駅前広場、僕の弾き語りと入れ替わりで、彼はずっとここにいた。
「さっき、ゾンビが僕に渡してきたんですけど、これ、あなたにだったんですね」
札束の入った封筒を、ピエロに向けて掲げる。
ピエロは声をかけられて固まり、まじまじと僕を見てきた。
無言で何かを確かめ合うような沈黙が生まれ、しばらくしてからピエロの纏っている空気が変わった。
「やあ、来てくれたんだ。ずっとそこのパン屋にいたよね。見ていたよ」
想像していたよりも若く、そして穏やかな声だった。野原にでもいるような朗らかさがある。
「電車の遅延が原因ですか?」
「そうなんだよ。本当にまいった。この日の為にやってきたのに、ああいうアクシデントがあるなんて。悪いことはできないねえ。君がいたおかげで助かったよ。もしかしたら今日、来れないかもしれなかったからさ」
「駅前で弾き語りをしていたから、僕があなたと勘違いをされたんですね」
「そうそう、駅前広場のパフォーマーに金を渡せって指示しておいたんだけど、ぼくが遅刻したせいで、君のところに行っちゃったんだ。ごめんね、驚いたたでしょ」
ピエロは素直に、出来事の裏側を認めていく。どうやら、森巣が電話で言っていた通りだったようだ。
森巣曰く、僕が金を受け取ったのは、何かを見たからではない。「内密に」と、書かれた文字は手書きではなくプリントアウトされたものだったから、事前に準備されていたということだ。
僕と小此木さんの推理通り、「人違い」は当たっていた。が、百万円を受け取った理由や「内密に」と書かれたメモの意味は違った。
何故、男子大学生がゾンビごっこをしたのか。
それはやはり、脅されていたからだ。
では、ゾンビを脅すように依頼をしたのは誰か。何故、脅されたのか。
僕と小此木さんは、森巣から電話でそれを教わった。その結果、小此木さんは「そういうことね」と納得して帰り、僕はこうしてピエロに向き合っている。
「ニュースになっていましたね。あれが関係してるって本当ですか?」
「ニュース?」
「女子大生に借金を背負わせて、風俗店で働かせていた男が逮捕されたって」
「ああ、そうだよ。あれもぼくが脅迫した。で、無視をしたから動かぬ証拠を警察に送っておいたんだ。でもあれは悪いことをしている一人なんだよ。氷山の一角。証拠不十分で、逮捕されてない人がほとんどだ。逮捕を逃れた大学生たちは、『社会勉強をした、いい経験になった』と仲間内では喋っている。君は信じられないかもしれないけど、悪いことを平気でしている人間はたくさんいるんだ。びっくりだよね」
4mを超える熊がいるんだよ、と語るような口ぶりだった。知らないと思うけど、巨大で獰猛で人間に牙を向くこともあるんだよ、と。
「構成人数は二百超え。たくさんの女性を騙して、性風俗の店で働かせていたんだ。年間七千万円超えだってさ。半グレって呼ばれてる連中らしい。悪い人は増えているね、びっくりだ」
びっくり、と何度もピエロが言っているが、彼は「許さない」と言っているように思えた。僕は素直に、「どうやって、そいつらは女の人を騙すんですか?」と質問してみる。人がそんなに簡単に騙され、お金や人生を奪われるものなのか? と想像できなかった。もう、先生に教えを請うような気持ちになっている。
「マニュアルがあるみたいだよ。数ヶ月かけて仲良くなって、それで自分がアルバイトをしているバーに連れて行くんだ。それが実は奴らが経営しているバーで、高額な請求をする。当然女子大生は急に、そんなお金を用意できない。男子大学生がだったら体で稼ぐしかないよと説得する。お店は『払わないなら親に言うぞ』『親に大金を払わせるぞ』と脅して行くよと説得をする。女子大生はパニックになって、そういうお店で働き始めてお金を稼ぐことになる。ぼったくりで儲けるし、男子大学生たちは仲介料を稼げる。びっくりだ」
淡々とした口調で一気に話されたけど、それをそのまますんなりと消化することができなかった。嫌な気持ちになり、胃がムカムカとし、眉をひそめる。飲み込めない気持ちを吐き出すように、
「警察に行けばいいじゃないですか」と口にする。
「警察に行っても無駄なんだ。お店は正規の料金だって主張して、お客側はぼったくられたって言う平行線になる。そうなると、警察は『民事だから裁判をしてくれ』って言っておしまい。警察が守ってくれることはない」
警察は正義の味方じゃないのか? 困っている人を助けてくれる為にあるのではないか? と愕然とする。小此木さんが話していた、警察とは言え大人を安易に信頼して生きるのはよくない、という考えが正しいのか。正義はないのか、と途方に暮れる。
「でも、女子大生たちは、酷い男に変な店に連れて来られたって気づいて、逃げなかったんですか?」
「そこは、恋の魔力だよ。彼は特別なんだ、自分を騙すはずがない、結婚する相手の為にがんばらないと、って思わさせちゃうんだよ。こういうときに、男子大学生たちはまめに連絡をしてくる。こういうテクニックにもマニュアルがある」
「マニュアルになかったのは、悪事がバレて脅されたらどうするべきかってことくらいですか?」
そのマニュアルがなくて助かったね、とピエロが呑気に言う。
「人間はさ、不安を取り除きたくなるもんなんだよ。不安を取り除く為に生きているいってもいい」
犯罪の話をしているのに、やはりピエロの口調や態度は鷹揚としたもので、梅雨前線が来たから雨が降るみたいだよ、と天気のことを口にしているようにも感じた。
「おれの友達も被害者の一人でね、話をやっと聞いた時は……」
「びっくり、ですか?」
「激怒した」
激怒した、という言葉に、『走れメロス』の有名なフレーズを思い出す。
『メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した』
ピエロも激怒し、決意し、行動したのだろう。
「それで、復讐をしようと思い立ったと?」
「まあ込み込みだね」のんびりとした口調は変わっていないけど、歯切れが悪く、どういうことかと不審に思う。
「苦しんでいる友達がいて、何もできないのは辛い。ぼくは君みたいに音楽を演奏できないから、落ち込んでいる相手に曲を作ってあげるようなこともできない。ポール・マッカートニーがジョン・レノンの息子に曲を作ってあげたでしょ? ああいうエピソードは良いよね」
「パントマイムじゃだめなんですか?」
「試した。けどだめだった。力不足。ぼくの技術不足かもしれないけど」
そう言うと、ピエロが少し寂しそうに笑う。笑顔のメイクがされているが、涙のメイクもされている。ティアーズオブクラウン、顔は笑っていても心では泣いている。
「男子大学生たちはどうやって見つけたんですか?」
「友達から聞いた大学生に声をかけた。仲間にないたいんですけどって探りを入れたら、結構ぺらぺら喋ってくれてね。自分はみんなと違って汗水垂らさずに大金を稼いでいるすごい奴なんだ、特別な人材なんだって誰かに褒めてもらいたいんだよ」
「褒めた次は脅したわけですね」
「うん。ぼくは悪い大学生たちのリストを作って、メールで全員に要求をしたんだよ。女子大生を風俗に沈めている酷い人間だとバラされたくなかったら、金を払うか恥をかけって」
やはり、ゾンビ大学生たちは、女の敵、だったわけだ。
「でも、さっき駅前にいた人は、僕にはお金を払った上に、ゾンビの真似をしたじゃないですか? あれはどうしてですか?」
「なんでだと思う?」
ピエロは興が乗った様子で、そう言うと腕を組んだ。ピエロの衣装のせいで、滑稽な芝居に巻き込まれている気恥ずかしさを覚えつつ、真剣に答えてみる。
「反省しているから、お金も払うし、恥もかかせてください、と思ったとか」
「いやあ、彼は反省と遠い存在にいるからなあ。お金で解決しようとしたのは、彼一人だけだったし。あれは、単に渡す相手を間違えたから、ゾンビもやってもらったんだ。ぼくじゃなくて、君に払ったからさ」
「自分が遅れて来たくせに!」と僕が指摘すると、ピエロは「まあね。ぼくも善人じゃあないし」とイタズラがばれたみたいに頬を緩めた。
「みんなよく、脅された通りに動きましたね」
「風俗グループのリーダーが逮捕されたでしょ? あのとき、他にも何人か脅迫しておいたんだ。金を払った人もいたけど、リーダーはタカをくくって金を払わなかった。で、リーダーは逮捕された。それで、こっちが本気だと伝わった。もしかしたら逮捕されるかもってビクビクしていただろうね。で、また脅したんだ。今度は知っている限り全員に」
「それでみんなが、横浜中でゾンビパンデミックが起こった、と」
「赤信号、みんなで渡れば怖くない、ってことじゃないかな。みんながやるならって決めたんだろうね」
「警察もあなたが呼んだんですか?」
森巣に教えてもらうまで、僕たちはその可能性を微塵も考えていなかった。人相が悪く、荒々しかったので、てっきりどこぞのヤクザだと思っていた。今回、僕は外見で人のことを判断しすぎた。大いに反省しなければならない。
「そうだよ。駅前で、振り込め詐欺の受け渡しがあるからって事前に匿名で通報しておいたんだ。あいつがゾンビになるのを見届けてから、通報は嘘です、でも、おかしなことをしている人がいます! ってと連絡したんだ。助けて、怖い! ってね」
「警察が取り合ってくれない可能性もありましたよね?」
「まあね。でも、それはどっちでもよかったんだ。怖がらせたいだけだから」
ピエロはおもむろにポケットに手を入れ、何かを取り出した。それを口元にやり、ふーっと息を吹き込むと、長い筒のように伸びていき、風船と気づく。彼は、見事な手際で、すいすいと風船を丸めたり捻ったりし、あっという間にプードルを作り上げた。
「わー! すごーい」
振り返ると、小さな女の子が立っていた。花柄のワンピースがよく似合う。ピエロがしゃがみ、それを女の子に手渡す。
「ありがとう!」と女の子は笑顔になり、少し離れた場所で立ち話をしている母親の元へ駆けて行った。あの子が、これから大人になり、悪い男に騙されて、お金を奪われたり、したくもないことをさせられたりするのかもしれない、と思うと、途端に暗澹たる気持ちになった。
「結構上手いもんだろ。練習したんだ」
ピエロが不安を吹き飛ばすような陽気な声を出す。彼は鷹揚で優しい人に見える。友人の為に一矢報いたかったという気持ちもわからないことはない。
「それでも、見逃せないことがあります」
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