『鬼のつかの間』(11月17日・「将棋の日」)
パチン……パチン、と乾いた音がする。
本気で戦っているのに、その音はあまりにも静かで、だからこそ、恐ろしい。
「なんで土曜日なのにやってるわけ?」
狭い部室には長テーブルが並び、制服姿の若者たちが、2人1組、真剣な表情で向かい合っている。
「なんでって、みんな好きだからじゃないの?」
「昔は違ったじゃないか」
「昔からルールは変わらないと思うけど」
そりゃルールは変わらないさ、と思いながら彼らが取り組んでいるものに目を移す。部員10人、男女半々、全員がパチン、パチン、と音を立てながら戦っている。
将棋だ。
「俺たちがいた頃、部員はいつも四人だったし、活動日も火・木の二日だけだったじゃんか」
「確かにね、ブームなんじゃない? 『三月のライオン』とか藤井聡太くんとかさ」
国木田が俺を見る。久しぶりに会う国木田は髪が肩まで伸び、化粧をし、顔つきも大人になっていた。まじまじと見られると、相手が国木田でも、どきりとする。
「苦虫」
苦虫?
「噛み潰したような顔してるよ」
眉間に皺が寄るのはわかったけど、そこまで露骨な顔をしていない気がする。が、自分の顔を触って無理やり笑顔を作った。
「篠原の対局、ネットで見てるよー、勝ったり負けたりだね」
ありがとう、と言うのはなんだか違うし、なんと言っていいかわからず、「勝ったり負けたり」と反復した。が、長い目で見ると、負けたり負けたり勝ったり負けたり、という感じで負けが多い。
「三段リーグはどう?」
「どうもこうも」
満身創痍でボロボロだ。
「周りは鬼のように強い奴らばっかりだ。地獄だよ」
俺はまだプロの棋士ではない。奨励会に所属している。
テレビで中継されたり報道されるようなプロ棋士になるためには、棋士育成期間の「奨励会」を突破しないといけない。
奨励会で切磋琢磨して、諦めなければ夢は叶うんだ! とは言っていられない。
奨励会では六級からスタートして勝ち上がり、年に4回ある「奨励会三段リーグ戦」を突破しなければ四段に、プロにはなれない。三段リーグは一度のリーグ戦で30人中2名しか突破できない鬼門だ。
それでもめげずに頑張れば、いつか夢は必ず叶うよ! とも言っていられない。
三段リーグには年齢制限が設けられており、26歳までに突破しなければ退会になってしまう。俺もリーグ戦に参加できる回数が片手のカウントを切ってしまった。
「次の対局、いつ?」
「来週」
「こんなところにいていいの?」
「自分の職場をこんなところと言っていいのか?」
と返事をしながら、自分でも、こんなところに来ていてはいけないのだということはわかっている。
「ちょったした気分転換だよ」
次の対局相手は、俺より年下の20歳だけど、最近彼は波に乗っている。将棋の対局記録、棋譜を分析してみたところ、彼は若さからなのか大胆な攻める将棋をしかけてくるが特徴的だった。
が、その大胆さから生じる隙を突いてみたところ、実はそれが罠だったという対局もあった。将棋はいつだってギリギリの駆け引きだ。一手の選択で勝敗が決することはよくある。
部屋に籠り、研究やシミュレーションをしていたが、戦ってみなければわからないなあ、と途方に暮れていた。
将棋に年齢や性別は関係ない。どんな相手だろうと、対等に本気で戦える。が、年下に負けるのは精神的にくるものがある。そう考えたら、目の前で対局している将棋部員たちのことも恐ろしく見えてきた。
じっと対局を観察していると、それぞれの粗が見えてきて、ほっとする。が、俺はなにをほっとしているんだ、とかぶりを振った。
対局が終わった部員たちが感想戦を始める。そばに立ち、戦法に乗っ取って、「少しずつ相手の先を読むようにしよう」とか「穴熊をやりたいのはわかるけど」とか「ゴキゲン中飛車の人はここを気をつけるといいよ」などとアドバイスをする。
「じゃーん! 先生の同級生で、奨励会にいる篠原和宏三段でーす!」
そう紹介されたとき、やめてくれよそんなプレッシャーをと思ったけど、アドバイスをすることで、彼らからの信頼を受けていくのを感じた。本物だ、と認められているようで、なんだか嬉しくなる。みんな真剣であるが故に、素直で、俺の言葉に耳を傾けてくれた。
「ありがとうございました!」
下校時刻になり、律儀に俺に礼をして部員たちは帰って行った。
「どう? 良い気分転換になった?」
国木田に尋ねられ、「ありがとう」と頷く。国木田が母校の先生になり、将棋部の顧問をしていると知っていた。昔、部室でみんなと指していたときは楽しかったなぁ、と思い、「覗きに行ってもいいか?」と連絡をしたのだ。
空っぽの部室で昔のことを思い出そうと考えていたのだが、まさか大所帯になっているとは思っていなかったが。
今はひたすら「負け」に怯える日々を過ごしている。負けたら終わるぞ、という不安の波に飲み込まれ、楽しさを見失っていた。人生をかけてきた将棋が苦しいものに変わり、けれどそれから逃れられず、楽しくなくなっていた。
しかし、こんな俺でも役に立つのなら、こうして後輩指導をするのも悪くない時間だ。
「あのさ国木田」
声をかけると、遮るように、国木田が口を開いた。
「ここにはもう、篠原の居場所はないよ」
鋭い言葉が突き刺さり、言いかけた言葉を見失う。
「これからも後輩指導に顔を出すよ、とか言うつもりだったんでしょ?」
「なんでわかるんだよ」
「一手先が読めるのよ。将棋部だったから」
国木田が、得意そうに胸を張った。
「篠原は今、戦っている。だけど、戦ってる途中に帰ってきてはだめ」
なんでか?
後悔するからだ。
国木田の言葉が、体に染み込んで行くようだった。彼女は普段もこうやって、生徒を諭す先生になっているのだろう。
「問題児がいてさ、『俺はロックンロール・スターになるんだ』って言ってるの」
唐突な話題に混乱する。「ロックンロール?」
「でも、彼はなれると思うんだよ」
「なんで?」
「篠原に目が似てたから」
「どんな目だよ」
「本気の奴の目」
買いかぶりだ、とは言いたくなかった。不覚にも目頭が熱くなる。ぐっとこらえて、拳を握った。
「篠原は将棋のなにが好きなの?」
「なにが好きって……ギリギリの駆け引きとか、年齢も性別も関係なく、誰とでも対等に本気で戦えるところとか」
そう口にしながら、自分が怯えていたものが、自分が好きだったものだと気づく。俺は将棋のことが好きなままだった、そうわかって心の底から安堵した。
俺は将棋や対局に負けていたのではない。自分自身に負けていたのだ。
「負けてからのことは、負けてから考えなよ。応援してるから」
「負けないっつうの」
「どう? 気分転換になった?」
心を見透かされていた。先読みをされたなと悔しくなり、ふんっと鼻を鳴らす。
つかの間の気分転換は終わりだ。
「ありがとうな。後輩指導にまた来るよ」
「ちょっと、わたしの話をちゃんと聞いてた?」
「一手先を読めよ」
そう言って、にっと笑ってみせる。
「次来る時は、篠原和宏四段だ」
(つづく)