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『飛べなくても、あの場所へ』(11月13日・「飛べない鳥の日」)

 会社からの帰り、電車に揺られながらニュースサイトをチェックしていたら、友人の名前が目に飛び込んできて、ぴたりと指が止まった。

『New Ginza Projectに、気鋭のアーティスト与田正臣氏を起用』

 与田は、僕の美大時代の同級生だ。

 心臓がばくんと跳ねる。

 どきどきというよりも、胸騒ぎがした。嫌な予感だ。

 おそるおそる記事の見出しをタップする。

 内容は数年後から行われる都市計画に、近年海外からも高く評価をされている気鋭のアーティストである与田正臣を起用することになったというものだった。

 すっと胸が冷えていくのを感じた。

 同級生がすごいプロジェクトに選ばれたぞ! というニュースを知って、「おめでとう!」という気持ちにはならなかった。

「お前の人生は間違っている!」と指摘をされた気分だ。

 学生時代の与田はいつもスケジュールがギリギリで、講評会でも教授たちに怒られていた。対して僕は構図やテーマを考え抜き、提出日の三日前には完成するように心がけていた。

 タイプが違うから仲が悪かったか?

 いや、逆だ。僕は与田のことを良い奴だと思っていた。

 僕たちは同じ油絵科で、アトリエが隣同士だった。

 与田はマイペースというか、朗らかな奴で、自分が煮詰まるとよく「ねえねえ、お茶にしようよ」と持参した水筒を取り出し、家で淹れてきた温かい紅茶を僕のマグカップに分けてくれた。

 それはアールグレイだったりダージリンだったり、かぼちゃの風味のする季節ものだったりして、今日の紅茶はなんだろう? と密かな楽しみにしていた。

「マッシー、いつか二人展をやろうね」
「与田が絶対にスケジュールを守るって約束するなら」
「スケジュール管理は、マッシーがしてよ」
「だったらこの話は無しだ」
「そんなあ」
「……やるならさあ、大きなところでやりたいな」

 絵の具の匂いが染み付いたアトリエが、紅茶の優しい香りで溢れるその時間が僕はなによりも好きだった。講評会で教授たちに褒められるよりも、ほっと一息吐き、友と話し、心と体を温める時間があることが、絵を描く理由になっていた。

 だけど、別れも訪れる。

 美大生が全員画家になって生活をできるわけではない。

 僕は時期が来たからという理由で就職活動をし、デザイン会社への内定が決まった。美大卒の進路としては、まあまあだと思う。あぶれることがなくてセーフという感じだ。

 一方の与田は「ぼくは絵を描いていたいし、就職はいいや。それに色々見たいんだ。ちょっと海外に行ってみるよ」と言っていた。

 その言動は、僕を苛立たせた。

 卒業が近づくにつれ、僕は与田を避けるようにした。お茶の誘いも断ってアトリエを出た。与田は「そっか」と言うだけで、変わらなかった。

 卒業式の懇親会でも、与田はいつもと同じように朗らかな笑顔を浮かべ、色々な人に「お世話になりました、ありがとうね」とお礼を言って回っていた。

 僕は最後の日も彼から逃げた。

「ねえマッシー、二人展のことだけどさ」

 そう言われるのが怖かったからだ。

 僕は、自分が画家にはなれないといつからかわかっていた。絵を描くのが好きだという理由で美大に入ったけど、絵で食べていこうと覚悟ができていなかった。

「絵描きになる」といつまでも子供のままでいる与田に対して、苛立ちを覚えていた。一緒にいよう、そのためにお前も大人になってくれよ、と思っていた。

 なのに、彼は出会ったときとずっと変わらなかった。

 僕たちは美大生という括りでは同じでも、別の種類だった。それは、飛べる鳥と飛べない鳥の関係に似ている。

 与田と一緒にいたかったが、僕は諦めた。

 就職先では、ポスターやチラシやWebページのデザインやコーディングをしている。別に美大に行かなくてもできたんじゃないかとさえ思える。

 電車から降りて、駅前の商店街でケーキを買った。モンブランと苺のショートケーキだ。ケーキの入った箱を慎重に持ち、マンションに帰る。

「おかえりなさい」

 鍵を開けて中に入ると、すぐに妻の声がした。

 リビングからひょいっと顔を出し、健康を確かめるみたいに僕の顔を見る。高校の同窓会で再会し、二年付き合って結婚した優しい人だ。

 ただいま、と返事をする。

「お疲れさま。わたしもさっき帰って来て、夕飯の支度がまだなの、ってそれどうしたの?」

 ケーキを買って来たんだ、と箱を見せる。

「今日、何かの記念日だったっけ?」

 違うけど、と僕は口ごもる。

「ちょうど甘いものが食べたかったのー! 嬉しー! 夕飯前でもいい?」

 かまわないよ、と頷く。僕からケーキの箱を受け取ると、妻がてきぱきとお皿とフォークを用意する。

「わー、ケーキだー! あ、わたしモンブランがいい! モンブランにはアッサムよね」

 妻が台所に立ち、ポットにティースプーンで茶葉を入れている。お湯が注がれ、アッサムの芳醇な香りがリビングに漂い始めた。僕は鞄を置いて、椅子に腰掛け、動き回る妻を眺める。

「でも、どうしてケーキ買って来たの?」

 昔の友達が偉くなったんだ、と与田のプロジェクトのあらましを説明する。

「そうなんだ! すごいねー!」

 妻が素直に喜んだ顔をする。僕もそうだね、とうなずく。

 与田はちゃんと画家になった。僕にはなれなかったものになった。

 が、どうだ与田! と心の中で思う。お前にはこの幸せが手に入らなかっただろう!

 遠くへ行ってしまったお前には! この、僕のささやかな幸せがわからないだろう!

 心の中で与田を思い浮かべ、そう言葉をぶつけてみる。

 だけど、与田の表情は変わらず、いつもの笑顔のままだった。

 ケーキを買って妻を喜ばせ、家庭があってお前は幸せな人生じゃないか、と自分に言い聞かせる。が、少しも気分は晴れなかった。もやもやしている、自分の気持ちの正体がわからない。成功への嫉妬なのか、自分への怒りなのか現実の寂しさなのか。

 僕は与田のように、絵描きとして活躍したかったわけではない。

 彼の隣を飛んでいたかった。

「食べよ、食べよ、いただきまーす!」

 目の前に苺のショートケーキと紅茶の入ったティーカップが置かれている。カップに手を伸ばし、そっと口に運ぶ。

 紅茶の香りは、僕をいつでもあの場所に連れ戻してくれる。

「ありがとう。美味しいよ」


(つづく)

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如月新一
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