「クビキリ」(初稿-4)
4
瀬川さんの犬を奪った犯人が逃げ込んだ先は、袋小路だった。
だが、そこに姿はなかったのだと言う。
犯人は煙のように消えたのか? そんな馬鹿な、とこの話を何度聞いても狐につままれたような気持ちになる。
森巣はどう思っただろう? 面食らっているだろうと顔色を窺う。顎に手をやり、思慮深そうに周囲に視線をやって観察していた。なんとなく、彼の周りの雰囲気がピリッと張り詰めているように感じ、声をかけることに躊躇する。
「瀬川、犬は抵抗しなかったのかい?」
しばらくしてから、森巣が声を発した。尋ねられた瀬川さんは、前髪に触れながら「ええっと」と口を開く。「抵抗してたと思うけど、何が起こっているのかよくわかってなかったと思う」
「吠えたりしてなかったのか?」
「初めは、してなかった。途中からは吠えてた、かな」
「犯人と角に消えてからは?」
「してたと思う。ちょっと聞こえた」
「この行き止まりに来てからは? 聞こえなかった?」
森巣の畳み掛けるような質問を受け、瀬川は考えこむように口元に手をやった。眉間に皺を寄せ、真剣な表情で宙を見つめている。ざっくざっくと、記憶を掘り起こしている音が聞こえてきそうだ。
「ちょっと思い出せない。ごめんね」
「いや、謝ることない。わかってないだろうとは思ってたんだ。確認をしたかっただけだからさ」森巣は淡々とした口調でそう言って、自分の顎から手を下ろした。
「なんの確認?」と僕は尋ねる。
森巣が僕を見てから、左右の家を交互に指出す。
それぞれ、百七十センチほどの塀がある。右の塀の向こうにはクリーム色の家が見え、左側の塀の上からは、庭木の枝が張り出していた。
「犯人が消えるわけがない。つまり、塀を乗り越えてどちらかの家に逃げ込んだんだ」
確かに、塀に手を伸ばし、がんばれば乗り越えられない高さではないと思う。だけど、だ。
「だけど、犯人はマリンちゃんも連れていたんだよ?」
「ああ、だから瀬川に吠えてなかったのか聞いたんだ。聞こえていたら、さすがにわかるだろう? 二人が何に悩んでいるのか、俺にもわかったよ」
「犯人は犬を連れて、どこにどうやって消えたのか? がわからないんだ」
僕が返すと、森巣が「難問だね」と言いながら行き止まりに向かって歩き始める。
両サイドの家が無理なら、正面かと一応考えているのだろう。だけど、それが一番無理だと思う。
ここは坂道にある住宅地なので、段々に家が建っている。行き止まりのコンクリートの壁の傾斜は大きく、駆け上がるのは無理な角度だ。ロッククライミングのような姿勢になるだろう。それに、壁の上にはフェンスが張られている。
僕も移動し、何か仕掛けはないよな? と考えながら壁を触ってみるが、ざらっとした感触が掌に伝わるだけだ。子供の頃に読んだ探偵小説であれば、行き止まりには秘密の通路があったりするけど、当然そんなものはない。
犯人が逃げられるとしたら、右か左の家になる。庭木があって少し邪魔だから、右側の、クリーム色の家の方だろうか? だとしても、犬を連れて飛び越えるのは大変だろう。瀬川さんが追ってくるのだって、そんなに時間はなかったはずだ。
「マリンちゃんを塀の向こうに投げて、自分も続いたのかな?」
「どうだろうな。瀬川、犬ってどのくらいのサイズ?」
瀬川さんが、大切なものを抱きかかえるように両手を広げる。五十センチくらいだろうか。中型犬だからそこそこ大きい。
「そのサイズの暴れる犬を放るのは大変だろうな」
「落下して、衝撃を受けて気を失ったからマリンちゃんは静かになったんじゃないかな?」
「犬なんだから、野性でというか自力で着地をしようとすると思うね。失敗をしたら、失敗したで、痛みから吠えまくるんじゃないかな」
だけど、瀬川さん曰く、それも聞こえなかったらしい。考えても先がわからない。まさに袋小路。僕と瀬川さんではどうにもできなかった。
森巣、君なら何かわかるんじゃないか? と期待を寄せて待っていると、森巣は瀬川さんを見据え、とんでもないことを口走った。
「瀬川はクビキリを知ってる?」
「……クビキリ?」
瀬川さんの表情が強張ったのがわかる。
「森巣!」
反射的に声をあげる。そんな話を今しなくても、不安を焚きつけるような真似をしなくてもいいじゃないか! と制止した。
だけど森巣は素知らぬ顔をし、「どうなんだい?」と促した。
「知ってるよ。みんな噂してるよね。あの、人とか動物とかの首を切っているやつだよね」
「瀬川も知っていたか」
「うん……え、もしかして」
瀬川さんの顔から血の気が引いていく。「もうやめてよ!」と僕は森巣と瀬川さんの間に入る。睨むような目つきもしていただろう。それでも森巣は語るのをやめなかった。
「そもそも、犯人の行動は衝動的なものだったのか、計画的なものだったのか、どっちだろうな。衝動的にしては、煙に巻くような逃げ方が鮮やかすぎる」
僕を無視して、森巣が滔々とした口調で話し続ける。
「おそらく計画的。女子高生が、夕方に一人で犬の散歩をしているのを知っていたんだろうな」
天気予報の話でもするみたいに、森巣が簡単に口にする。だけど、僕はそんな話をしてもらいたくて森巣を招き入れたのではない。不安を晴らして欲しかったのに、まるで暗雲を呼び込んでいるように思えた。
森巣に瀬川さんが怯えるようなことを口にするのはやめてもらいたかった。この町にはクビキリ犯がいるから、最悪の事態を覚悟しろ、とでも言いたいのだろうか。
「平が見たクビキリ犯と同じ格好をしていた、というのも気になる」
森巣がそう口にし、瀬川さんが「え?」と漏らす。目を剥き、確かめるように僕を見る。眼鏡の奥の瞳が不安のせいで揺れている。
それとなく探りを入れる質問はしていたけど、「XXXXパーカー」の男がクビキリ犯だということは伝えていなかった。
平くん、と瀬川さんの口が動く。瀬川さんの顔に不安の色が滲み、広がっていく。青ざめていく。
「瀬川さん、それは……」
違うよ、というわけではないし、なんと言ったらいいのかわからなかった。
瀬川さんの表情が一瞬固まった、かと思ったら、くしゃっと顔中に皺が寄り、目から涙が溢れ出した。食いしばるように伸びている口から、嗚咽が漏れ聞こえてくる。
「ねえ、どうしたらいいの!? わたし、できることならなんでもするから!」
学校での、大人しくて委員長然とした瀬川さんからは考えられない、悲痛で必死な叫び声だった。僕の胸がぎゅっと絞られるように痛む。
「美紀の為なら、マリンが戻ってくるなら、なんでもするわ! 本当よ!」
瀬川さんは泣き声をあげながら両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちるように蹲った。プレッシャーが瀬川さんの身体にのし掛かり、失意のどん底へ、ぺしゃんこに押しつぶそうとしているように見える。
「どうして、どうして」と開かない扉を何度も叩くように口にしている。
瀬川さんは被害者だ。散歩中に犬を拐われた責任は彼女にはない。だけど、年の離れた妹は理解してくれているだろうか。両親もちゃんと同情しているだろうか。「しっかりしていれば、拐われずに済んだのに」と思われていないかと、瀬川さんが感じていたのかもしれない。
自分の中でやり場のない悲しみと共に、憤りがむくむくと湧き上がって来た。
どうして、クビキリの話をしたんだ!? と咎めるつもりで森巣を見つめる。
森巣は無表情で、じっと瀬川さんのことを見下ろしていた。僕の視線に気づくと、森巣は悪びれる様子もなく、まるで僕を安心させるように薄く微笑んだ。
何故、こんなときに笑えるのか? と意図がわからずに呆気にとられていると、森巣は咽び泣いている瀬川さんに歩み寄り、屈んでそっと肩を抱き寄せた。
「瀬川、大丈夫だよ。任せておいてくれ」
陽だまりのように暖かく、優しい声だった。
瀬川さんが顔を上げる。森巣を見つめる目は潤んでいたけど、不安の色は薄くなっていた。
期待と信頼の眼差しを森巣に送っている。
森巣はそれを受けて、ゆっくりと頷いた。
家の前まで送り届けた頃には、瀬川さんは落ち着きを取り戻していた。僕たちに礼を言ってぺこりと頭を下げ、門の向こう、家の中へ帰って行く。瀬川さんもいっぱいいっぱいだろう、今日はもう休んでおいた方がいい。
瀬川さんの家は、やっぱり大きくて立派だった。だけど、四人と一匹がいるから幸せなのであって、理不尽に家族が欠けている今は、空いたスペースに寂しさが侵食しているのだろう。
僕と森巣の手には、瀬川さんから託された町の掲示板に貼るためのチラシが握られている。地道に情報を収集し、探すほかあるまい。
でも、だ。
「森巣は何かわかってるの?」
隣に立つ、森巣に向き直り、尋ねる。
すると、森巣は「まあ、少しね」と頷いた。が、どこか歯がゆそうな表情をしている。
「でも、まだ人に言える段階じゃあないんだ」
「どうして瀬川さんにクビキリの話をしたんだい? 不安がらせる必要なかったじゃないか」
「知りたいことがあったんだ。あそこまで怯えさせるつもりはなかった。それは反省しているよ。でも、わかったこともある」
「何がわかったの?」
「これもまだ言えないんだ。悪いね」
森巣がそう言って、肩をすくめる。言えない段階でも教えてもらいたかった。僕を安心させて欲しかったが、ぐっと我慢する。きっと、問いただしてもはぐらかされてしまうだろう。そういう有無を言わせぬ語気があった。
「平、少し歩こうか」
そう言って歩き出したので、森巣の隣に並び、夕暮れ時の街を歩く。森巣が「そう言えば」と言い出したので、何かわかったのか? と期待する。
「さっきは悪かったね。瀬川のことは取らないから、安心をしてくれよ」
「瀬川さんを取る?」
わけがわからず、尋ね返す。
「好きなんだろ? 瀬川のことが」
「僕が? 瀬川さんを?」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。森巣が、「え? 違うの?」と目をぱちくりとさせる。僕は空気をかき混ぜるかのように、ぶんぶんと手を振る。が、その様子が必死すぎて逆に怪しまれるのでは、とも不安になった。
「そういう恋愛感情で動いているわけじゃないよ。もちろん瀬川さんは良い人だから、好きではあるけれど」
「へえ、そうなのか。てっきり、瀬川の気を引きたくて犬探しを手伝っているのかと思ったんだけど」
「違うよ。言ったじゃないか。僕は瀬川さんが困っているから、放っておけなかっただけだよ」
「本気で言ってるのか?」「本気だよ」
そう言いつつ、それだけだろうか? と自分でも思ってきた。どうして僕はここまで瀬川さんの為に、役に立とうと思っているのか? と自問する。
例えば、他の同級生でも、同じように動くか?
……僕はきっと同じように動く。
「妹がいるって話をしたよね」
「俺には会わせたくない妹だよね」
「いつか紹介するよ。静海《しずか》って言うんだけどね、下半身不随で車椅子生活なんだ。生まれつき、ね」
頭の中で静海を思い浮かべる。静海は、日向を思わせる柔らかい笑顔と、丈夫な車椅子がセットになっている。
「知ってる? エレベーターって三階以上の建物しか設置するように言われてないんだ。それも、義務じゃない。義務になるのは、高さが三十一メートルからってなっている」
森巣が黙って僕の説明を聞いてくれているので、話を続ける。
「妹は行きたいところに、すぐに行けないし、行けないこともある。それだけじゃない。さっきのカフェだっておしゃれだったけど、入り口がバリアフリーじゃなかったから、誰かの助けがないと入れない」
これではただのバリアフリー談義になってしまうぞ、と思い、まとめようと頭の中で言葉を畳む。
「この社会は、弱い人の為にはできていないんだ」
「弱い人の為にはできていない」
森巣が、僕の思考をなぞるように、復唱する。
「石とか、ゴミとか、小さな溝でも、油断すると静海の怪我に繋がることもある。でもね、そんなことよりも嫌なことがある」
「人間か」
森巣がずばり正解を言うので、僕は目を丸くする。
でも、その通り、と首肯した。
「邪魔だとか鬱陶しいって因縁をつけてきたり、邪険に扱ってくる人たちがいるんだ。妹は何も悪くないのに」
「社会は、弱い者に厳しいからな。誰もが優しいわけじゃない」
「そうだね。綺麗事ばかりじゃない。だから、僕は子供の頃からお母さんに言われてきたんだ。『誰よりも、優しくなりなさい』って」
子供の頃、僕は妹が苛められたり、仲間はずれにされたり、当たられるのが嫌だった。その不平不満を、母さんにぶつけた。すると、母さんは屈んで僕の目をまっすぐ見て、こう言った。
「優しくなりなさい」と。
どうして? とも思ったが、母さんの意図が、だんだんとわかるようになってきた。優しくなるには、人としての強さが必要になる。それがとても険しい道であると感じながら、今も生きている。
「優しが平の強さ、か」
「強さ、というか、指針というか」と口にする。
どうするか迷うくらいなら、他人の為になる方へ、針の指す方へ進め、と思っているだけだ。
「ちょっと平のことを誤解していたよ。平は俺と違っていい奴だな」
「瀬川さんの為に力を貸してくれて、森巣だってそうじゃないか」
「俺はただ、弱い者いじめが許せないだけさ」
クビキリ、弱い小動物を一方的に手にかけるひどい人間、森巣はそれを許せないのだろう。
困っている人が放っておけない、弱い者いじめが許せない、僕らはなんだか似ているな、という気がして嬉しくなる。
「ところで、平はクビキリを見たんだよね?」
「うん、見たよ。カフェで話した通り。嫌な夜だった」
僕は瀬川さんに聞かせたくないから、二人きりの時に言ったのに、と思い出して少し口調が尖る。
「犯人の意図はなんだろうな。どうして町に置いているのか」
「意図なんて……言い方は悪いけど、捨てただけじゃないの?」
「いや、平の話だと、わざわざ人目に触れる場所に置いているんだろう? 犯人はクビキリを人に見せたいんじゃないかな」
「なんだか悪趣味だね」
弱い者に手をかけて、自分の嗜虐性を満たし、残酷なものを他人が見ることによって興奮しているのだとしたら、最悪だ。
「なあ、平はクビキリを見て、何を思った? どう感じた?」
「その質問は二回目だ」
「二回目?」
「職員室で柳井先生にもされたよ。『クビキリを見てどう思ったか?』って」
「で、なんて答えたんだ?」
なんと答えたんだっけ? 思い出す癖で空を見上げる。巨大な雲が地上の蓋をするように浮かび、移動していた。が、職員室での会話を思い出すことはできた。
「命は、理不尽な終わりを迎えることもあるんだ、そう思ったよ」
「なるほどね」
ぽつりと森巣が呟く。満足いく感想ではなかったかもしれない気がして、
「もちろん、理不尽に奪われていい命なんてない、と思うけどね」
とコメントを付け足す。
これは胸を張って言える本心だ。
テレビやネットでは、横浜や、日本や、世界で事故や事件のニュースが起きていると流れてくる。どうしてこんな、と思う。防ぐことはできなかったのか、何故こんなことが起こったのか、と途方に暮れることがある。
「どうしてその質問を?」
「ちょっと平の目からはどんな風に見えたのか気になったんだよ」
「僕の目?」
「平は目が良いからさ」
「まあ、両目とも二・〇なのが自慢だけど。どんな風に見えたのかは、残酷で嫌なものだったよ」
ぱっと、クビキリを、白猫をフラッシュバックし、かぶりを振る。
森巣を見ると、彼は微笑みを浮かべながら歩いていた。人を安心させるための表情で、きっと彼の本心からの顔ではない気がする。頭の中で、どんな考えを巡らせているのだろうか。
森巣良、不思議な同級生だ。爽やかで人当たりが良く、行動力もあって頭も良さそうだ。だけどまだ、彼が何を考えているのかは計り知れない。
それじゃあ、二人でそれぞれチラシを分担して掲示していこう、という話になり、森巣と別れた。
「何かわかったら、明日平にも言うよ。地道に頑張ろう」
森巣はそう言って、じゃあ、と軽く手を振り、小走りで去って行った。
森巣ともっと話をしてみたかったけど、二手に分かれた方が掲示は早く終わる。遠ざかり、どんどん小さくなっていく森巣の背中を見送りながら、一息吐き、僕は回れ右をした。
森巣はあの袋小路で何かをわかった様子だった。僕ももしかしたら、森巣のように他の現場に行けば何かを気付けるのではないだろうか、そんな考えが浮かぶ。
同級生に差をつけられた、と悔しい気持ちがあるわけではないが、同級生にできることなら、僕にももっとできることはあるのではないか、という気がする。役に立てることをしたい。
僕は町の掲示板にチラシを貼りながら、三体目のクビキリが置かれた小学校の前にやって来た。三体目のクビキリは、世間的には一番衝撃的な事件だろう。
三体目が発見される一週間前、小学校から白い兎が一羽行方不明になっていた。生徒が小屋の鍵を閉め忘れたせいで脱走してしまったのかと思われたが、違った。兎は、頭だけの状態で、小屋に帰って来た。
犯人は、変り果てた姿で戻ってきた兎を発見し、阿鼻叫喚する子供たちを、少し離れた場所から見ていたのだろうか。それとも、その光景を想像しながら優雅に紅茶でも飲んでいたのだろうか。
どちらにしても、おぞましくて寒気が走る。ぶるっと身震いが起こった。
フェンス越しに見える、校庭でサッカーをしている小学生たちを横目に、学校の周りをぐるりと回る。ボールを追いかけ回る無垢な動きは、眩しく、エネルギーに溢れていて、安心した。
校舎の隅にある、トタン屋根の飼育小屋の前で立ち止まる。
学校を囲むフェンスは越えられない高さではないから、犯人はここを乗り越えて、飼育小屋の鍵を壊し、兎を連れ去ったのだろうか。
小屋の中に動物の気配はない。空の飼育小屋は寒々しくて、胸を潰すような寂しさがある。まさか、他の兎も殺されてしまったのだろうか? 空っぽの小屋を眺めていたら、水中に沈んでいくみたいにぼーっとしてきた。
生きているものは、いつか死ぬ。
死んだものがいるけど、僕はまだ生きている。
殺された兎のいた小屋を僕は見ている。
殺された兎のいた小屋を見ている僕を誰かが見ているような気がした。
闇の中で、誰かと目があったような恐怖感を覚え、ぞわっと鳥肌が立ち、慌てて振り返る。
だが、道路には誰もいなかった。
「すみませーん、どうかしたましたかー?」
校庭の方から声が聞こえ、はっとする。
「もしもーし、どうかしましたかー?」ともう一度聞こえ、向き直る。
ふくよかな体型の女の人が校庭に立っていた。眼鏡を触りながら、不審そうにこっちを窺っている。おそらく、この学校の先生だろう。
「すいません。ちょっと近くに寄ったんで様子を見に来たんです」
「はぁ、なんのですか?」
クビキリの調査の、という説明をしたら逆に怪しまれてしまうぞ、と思い「ここの卒業生なんですけど」と咄嗟に口から嘘が飛び出た。
「飼育小屋から兎が盗まれて、酷い事があったと聞いて。その、僕は係でよく餌をあげていたので」
僕が卒業生だと聞いて、相手の緊張が解けたのがわかる。眉間の皺が消え、口調も柔らかいものになった。
「卒業生の方なのね。そうなの。去年から飼い始めた、パランちゃんていう白兎で、みんなで可愛がってたんだけどね……」
「酷いことをする奴がいますね」
「本当にね。どうして、こういうことを平気で出来る人がいるのかって、頭にきちゃう。だけど、犯人も元小学生なのよね」
元小学生という言い方がなんだか変で、苦笑する。僕もあなたも、元小学生だ。
「小学校にいたとき、生き物は大切にしようっていうことは伝えられるけど、ちゃんと教えられなかったんだなって。悲しいというか虚しいというか、やるせない気持ちになっちゃうわね」
「でも、先生に責任はないでしょう」ましてや、あなたは犯人の担任じゃなかったでしょうに。
「犯人は小学校で、他の人か生き物を思いやる気持ちとかを学べなかったんだろうなぁって思うのよね」
「学校の勉強じゃ、ダメなんですかね。そういう犯人の思想を正す為には」
「道徳とか国語とかもあるけど、お勉強だけじゃだめのよ、きっと。勉強じゃなくて、学習もしないとだめ」
「勉強と学習は違うんですか?」
「勉強はやらされるものだけど、学習は自分から学ぶことなの。もっといろいろと学ぶべきだったのよ。教科書とか黒板に書かれていないことを、ね。わたしたちが本当に教えたいことって、そういうことなんだけどさ、うまく伝えられないんだわ」
「他人を思いやる気持ちを、どうやったら学べるのか」
「難問ね」
また、壁にぶち当たっているような気持ちになる。
僕だって、妹や母さんがいなかったら、人に優しくしようと思わない人間になっていたかもしれない。動物を殺すような人間にはならないと思うけど、違う自分を妄想し、身震いしてしまう。
「せっかく様子を見に来てくれたのに、ごめんね。危ないから兎たちはケージに入れて、職員室の中に移動させたの。飼育小屋だと、散歩の途中に近所のお年寄りが見れてよかったんだけど」
残念そうに先生は言い、溜息を漏らした。が、僕は他の兎は生きているのか、とほっとした。
そのとき、先生が急におや、と眉を上げて僕をまじまじと見始めた。何かついているだろうか、と顔や制服を検める。
「あなた、湊第一高校《みなとだいいちこうこう》の生徒さんじゃない?」
「そうですけど」
「ああ、いい高校なのねぇ」と一人で何かに納得した様子でうんうん頷く先生に、「なにか?」と訊ねる。
「頭だけになったパランを見つけてくれた子も、湊一高の生徒さんだったのよ」
「登校して来た小学生が見つけたんじゃないんですか?」
「違うわよ。湊一高の生徒さんが見つけて教えてくれたの。早朝のジョギング中に通りかかって、気づいたんですって。ちょうどあの日、わたしは採点とか授業の準備があって早くから学校にいたの」
先生の口調が、段々うっとりとしたものに変わっていく。
「来てくれた子、しゅっとして、すごく綺麗な子だったわねえ。男の子なんだけど」
ふっと、周りの気温が下がったような、嫌な予感を覚えた。
まさかと思いつつ、おそるおそる口を開く。
「もしかして、森巣って名前じゃありませんでしたか?」
「そう、森巣くん。あなた、お友達なの? イケメンで、礼儀正しくて、みんなにもあんな風に大きくなってもらいたいわねえ」
先生の言葉が頭のなかでもやとなり、包み込んでくる。
わからない。
森巣もクビキリの発見者?
だとしたら、何故クビキリについて知らないフリをしていたのか?
何故、僕に嘘をついていたのか?
つづく
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