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クビキリ(2稿-10)

       10

 瀬川さんの犬を奪った犯人が逃げ込んだ先は、袋小路だった。

 何かの冗談だとも思えず、きょとんとしてしまい、瀬川さんの顔をまじまじと見ると、瀬川さんは何かを怖れているかのように、左腕を抱き、目を伏せていた。来たくない、見たくない、と身を守っているようだ。

「え? ここに逃げ込んだの?」
「……うん」とか細い声で声が返ってくる。

 僕は口をぱくぱくとさせ、顔をしかめ、混乱しながら、周りを見回す。右の塀の向こうにはクリーム色の家が見え、左側の塀の上からは、庭木の枝が張り出していた。奥は、行き止まりの壁だ。頑然と僕らを追い返すような、問答無用な印象を受ける。

 犯人は煙のように消えたのか? そんな馬鹿な、どうやって? と狐につままれたような気持ちになった。

 森巣はどう感じただろうか? 面食らっているだろうと顔色を窺う。顎に手をやり、思慮深そうに周囲に視線をやって観察していた。なんとなく、彼の周りの雰囲気がピリッと張り詰めているように感じ、声をかけることに躊躇する。

「瀬川さん、一体どういうこと?」
「わからない」
「犯人はどこに行ったの?」
「わたしにも、わからないの!」

 瀬川さんが声を張り上げ、思わずびくっと跳ね上がりそうになった。感情的になっている瀬川さんを見るのは、初めてだった。瀬川さんの眉が悲しげに歪み、「ごめんね、平くん。全然わからないの」と涙声がもれている。

「落ち着いて、瀬川さん、大丈夫だから」と僕は何が大丈夫なのかわからないけれど、なだめようと声をかける。目を離すと見捨てるようで申し訳ないし、繰り返す「大丈夫だよ」と。「瀬川、犬は抵抗しなかったのかい?」と森巣が言ったのは、しばらくしてからのことだった。

 尋ねられた瀬川さんは、少し落ち着きを取り戻したのか、困惑した様子ではあったけど、前髪に触れながら「ええっと」と口を開く。

「ちゃんと見れなかったからわからない。突き飛ばされたとき、眼鏡が外れちゃったから」
「そうか、瀬川に怪我はない?」
「ありがとう、大丈夫。本当にあの時は、何が起きてるのかわからなかった。マリンも何が起こっているのかよくわかってなかったと思う」
「吠えたりしてなかった?」
「初めは、してなかった。途中からは吠えてた気がする」
「犯人と角に消えてからは?」
「してたと思う。ちょっと聞こえた」
「この行き止まりに来てからは? 聞こえなかった?」

 森巣の畳み掛けるような質問を受け、瀬川さんは考えこむように口元に手をやった。眉間に皺を寄せ、真剣な表情で宙を見つめている。ざっくざっくと、記憶を掘り起こしている音が聞こえてきそうだ。

「ちょっと思い出せない。ごめんね」
「いや、謝ることない。確認をしたかっただけだからさ」森巣は淡々とした口調でそう言って、自分の顎から手を下ろした。
「なんの確認?」と僕は尋ねる。

 森巣が僕を見てから、左右の家を交互に指出す。それぞれに塀があり、その奥に屋根が見える。

「犯人が消えるわけがない。つまり、塀を乗り越えてどちらかの家に逃げ込んだんだ」

 高さは僕らの背丈よりも少し高いくらいだ。塀に手を伸ばし、がんばれば乗り越えられない高さではないと思う。だけど、だ。

「犯人はマリンちゃんも連れていたんだよ?」
「ああ、だから瀬川に吠えてなかったのか聞いたんだ。聞こえていたら、さすがにわかるだろ?」

 これは難問だね、と言いながら、森巣が行き止まりに向かって歩き始める。
 両サイドの家が無理なら、正面かと一応考えているのだろう。だけど、それが一番無理だと思う。

 ここは坂道にある住宅地なので、段々に家が建っている。行き止まりのコンクリートの壁の傾斜は大きく、駆け上がるのは無理な角度だ。ロッククライミングのような姿勢になるだろう。それに、壁の上にはフェンスが張られている。

 瀬川さんの様子をちらりと窺う。ぎゅっと唇を結び、居心地悪そうに伏し目になっていた。そばにいて励ましの声をかけ続けたいけど、僕にも手がかりを見つけることはできないだろうか、と移動する。

 何か仕掛けはないよな? と考えながら行き止まりの壁を触ってみるが、ざらっとした感触が掌に伝わるだけだ。子供の頃に読んだ探偵小説であれば、秘密の通路があったりするけど、当然そんなものはない。

 犯人が逃げられるとしたら、森巣の言う通り、右か左の家になる。庭木があって少し邪魔だから、右側の、クリーム色の家の方だろうか? だとしても、犬を連れて飛び越えるのはやっぱり大変だろう。瀬川さんが追ってくるまでに、そんなに時間はなかったはずだ。

 腕を組み、じっと立っている森巣の隣に移動して、「ねえ」と声をかける。

「マリンちゃんを塀の向こうに投げて、自分も続いたのかな?」
「どうだろうな。瀬川、犬ってどのくらいのサイズ?」

 瀬川さんが、大切なものを抱きかかえるように両手を広げる。五十センチくらいだろうか。中型犬だからそこそこ大きい。

「そのサイズの暴れる犬を放るのは大変だろうな」
「落下して、衝撃を受けて気を失ったからマリンちゃんは静かになったんじゃないかな?」
「犬なんだから、野性でというか、自力で着地をしようとすると思うね。失敗をしたら失敗したで、痛みから吠えまくるんじゃないかな」

 だけど、瀬川さん曰く、それも聞こえなかったらしい。考えても先がわからない。まさに袋小路。
 僕は瀬川さんの元に戻り、言うか言うまいか逡巡した後、恐ろしくもあったけれど、思い切って尋ねてみる。

「瀬川さん、逃げた犯人の服装って覚えてる? もしかして、黒いパーカーで背中に白文字でXって書いてなかった?」

 質問を受け、瀬川さんが疲労感の滲んだ顔で、思い出すような時間をかけてから、「そう、だった」と答えた。

 その返事を聞き、思わず顔を手で覆った。僕が見たクビキリの犯人と同じ格好じゃないか。同一犯と考えるのは短絡的だとは思えない。あいつは、瀬川さんを襲い、犬を拐ったんだ。だとすると、マリンちゃんが危ない。お腹の底から焦りがこみ上げ、胃のあたりがぎゅうっと絞られるように痛む。

 どうしよう? と森巣を見ると、森巣は瀬川さんを見据え、とんでもないことを口走った。

「瀬川はクビキリを知ってる?」
「……クビキリ?」

 瀬川さんの表情が強張ったのがわかる。

「森巣!」

 反射的に声をあげる。クビキリの犯人の格好を尋ねたが、僕はクビキリの話はしていない。瀬川さんの不安を焚きつけるような真似をしたくなかったからだ。
 だけど森巣は素知らぬ顔をし、「どうなんだい?」と促した。

「知ってる。同級生が噂してるよね。あの、動物の首を切ってるっていう」
「瀬川も知っていたか」
「うん……え、何? どういうこと?」

 瀬川さんの顔から血の気が引いていく。「森巣! もうやめてよ!」と僕は森巣と瀬川さんの間に入る。睨むような目つきもしていただろう。それでも森巣はやめなかった。冷静な顔つきで、淡々と分析を述べていく。

「俺にはまだわからないけど、巧妙に逃げるルートも犯人は考えていた。女子高生が、夕方に一人で犬の散歩をしているのを知っていたから犯行に及んだ、計画的なものだろうね」

 天気予報の話でもするみたいに、森巣が簡単に口にする。だけど、僕はそんな話をしてもらいたくて森巣の協力を歓迎したのではない。不安を晴らして欲しかったのに、まるで暗雲を呼び込んでいるように思えた。

 森巣に瀬川さんが怯えるようなことを口にするのはやめてもらいたかった。この町にはクビキリ犯がいるから、最悪の事態を覚悟しろ、とでも言いたいのだろうか? それは、無慈悲だ。

「平が見たクビキリ犯と同じ格好をしていた、というのも気になる」

 森巣がそう口にし、瀬川さんが「え?」と漏らす。目を大きく見開き、確かめるように僕に視線を移す。眼鏡の奥の瞳が不安のせいで揺れていた。
 平くん、と瀬川さんの口が動く。瀬川さんの顔に不安の色が滲み、広がっていく。青ざめていく。

「いや、瀬川さん、それは……」

 違うよ、と嘘を吐いて誤魔化せばよかったのか、なんと言ったらいいのかわからなかった。ただ、続く言葉が思い浮かばず、口をぱくぱくとさせる。

 瀬川さんの表情が一瞬固まった、かと思ったら、つーっと目から涙が溢れ出した。食いしばった口から、嗚咽が漏れ聞こえてくる。

「ねえ、どうしたらいいの!? わたし、できることならなんでもするから!」

 学校での、大人しくて委員長然とした瀬川さんからは考えられない、悲痛で必死な叫び声だった。僕の胸がぎゅっと絞られるように痛む。

「美紀の為なら、マリンが戻ってくるなら、なんでもする! 本当よ!」

 瀬川さんは泣き声をあげながら両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちるように蹲った。プレッシャーが瀬川さんの身体にのし掛かり、失意のどん底へ、ぺしゃんこに押しつぶそうとしているように見える。

「どうして、どうして」と開かない扉を何度も叩くように口にしている。

 瀬川さんは被害者だ。散歩中に犬を拐われた責任は彼女にはない。だけど、年の離れた妹は理解してくれているだろうか。両親もちゃんと同情しているだろうか。厳しい家庭と言っていたし、「しっかり手綱を握っていれば、拐われずに済んだのに」と瀬川さんは責められていないだろうか。

 泣き崩れてしまった瀬川さんを見ながら、自分の中でやり場のない悲しみと共に、憤りがむくむくと湧き上がって来た。

 どうして、クビキリの話をしたんだ!? と咎めるつもりで森巣を見つめる。
 森巣は考えの読めない表情で、じっと瀬川さんのことを見下ろしていた。僕の視線に気づくと、悪びれる様子もなく、まるで僕を安心させるように薄く微笑んだ。

 何故こんなときに笑えるのか? と意図がわからずに呆気にとられていると、森巣は咽び泣いている瀬川さんに歩み寄り、しゃがんでそっと肩を抱き寄せた。

「瀬川、大丈夫だよ。任せておいてくれ」

 陽だまりのように暖かく、優しい声だった。
 背中を優しく叩かれた瀬川さんが顔を上げる。森巣を見つめる目は潤んでいたけど、不安の色が薄くなっていた。

 期待と信頼の眼差しを森巣に送っている。
 森巣はそれを受けて、ゆっくりと頷いた。

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