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クビキリ(2稿-20)

       20

 最後の力を振り絞り、柳井先生の足首を強く掴む。
 すると、頭上から柳井の声が降って来た。

「平、お前のように他人の顔色ばかり窺って自分の人生を歩んでいない人間はな、死んでいるのと同じなんだよ。今更よせよ、見苦しいだけだぞ」

 足をぶんぶんと振られる。必死に、振り払われないように、指先を靴下に引っ掛ける。
 舌打ちが聞こえた。瞬間、思いっきり掴んでいる両手を踏みつけられた。
 呆気なく、僕は柳井から手が引き剥がされる。追い討ちをかけるように、肩を蹴り上げられ、僕は床の上をごろごろと転がった。

 それでも少しは時間を稼げたはずだ。森巣は逃げられただろうか、と視線を這わせる。
 が、愕然とした。森巣は椅子に座ったままだった。それどころか、姿勢も変えず、驚いたような顔で僕を見ている。何をしているんだ、と焦りが込み上げてくる。「ニゲロ」と口だけ動かすが、聞こえるほどの大きな声はもう出ない。

「先生、俺たちはオッドアイじゃない。だけど、いいんですか?」

 森巣が丁寧な口調で柳井先生に尋ねた。

「知られてしまったからには、生かしてはおけないよ」
「初めてじゃないから、ですか?」
「そんなこと、どうして気にするんだ?」
「おい、質問に質問で答えるなよ」

 再び、あのときのプレッシャーを覚え、背筋が凍った。
 森巣にクビキリ犯じゃないのか? と尋ねた時のプレッシャーだ。
 室内に、ぴんっと糸が張り詰めたような緊張感が生まれる。森巣を見ると、氷のような瞳で柳井のことを見据えていた。

「瀬川の犬がオッドアイであること、散歩コースと時間を知っていることでお前のことが少し気になったが、平に『クビキリを見て何を感じたか?』なんて訊いたのは、欲が出すぎたな。教師がする質問じゃないぞ」

 森巣の口調とトーンががらりと変わっている。低く、険があり、苛立っていた。
 風貌は同じなのに、森巣を纏っていた爽やかさは消え失せ、殺気を纏っている。まるでそこにいるのが別人であるようだった。

 森巣がゆっくりと立ち上がると、ティーカップを傾けた。床にお茶がびちゃびちゃと音を立てながら垂れていく。

「一つ訂正してやる。平は死んでいるのと同じなんかじゃない。生き抜く為に、周りを見ているんだ」

 僕を一瞥し、見えてるものがちゃんとわかっていないけどな、と呟いてから柳井に向き直る。

「俺は一滴も飲んじゃいない。柳井、お前も平の観察眼を見習うんだったな」

 森巣は唇の端を上げ、ティーカップを地面に叩き落とした。高そうな食器が悲鳴を上げるような音を立てて砕け散る。

「うるさい! 与えている者が上! 怯えて這いずり回る者が下だ!」
「ごたくを並べてうるさいな」
「つまり、俺が上で、お前らが下なんだよ!」

 柳井が足早にキッチンへ向かった。一体何を? と思って見つめていると、刃渡り十センチはあるサバイバルナイフが握りしめて戻ってきた。顔を真っ赤にして、蒸気機関のように鼻息を荒くし、森巣を睨みつけている。

「そのナイフ、格好いいじゃないか。通信販売で買ったのか?」

 森巣がおちょくるような口調で尋ねると、柳井先生は喚くように声を荒げながら、右手に持つナイフを森巣に向けて飛び出した。

 危ない! 逃げろ! そう頭の中で念じる。
 だが、森巣は逃げずに、前進した。
 森巣が身を屈めつつ摺り足で移動し、間合いを詰めていく。

 突き出される柳井先生の右腕に、森巣は左手を添えた。そのまま腕を左に伸ばし、ナイフを持つ手を遠ざける。

 すかさず、右腕を思いっきり振り上げた。森巣の掌底が柳井先生の顎を思いっきり打ち付ける。がくんと柳井先生の顔が後ろに反り、ナイフが床に落下した。

 動きに無駄がなく、そして大きな力を必要としない、しなやかな反撃だった。格闘と言うよりも、舞いをしているような流麗さがある。

 がら空きになった胴体、鳩尾の辺りに森巣の拳が叩き込まれる。
 柳井先生が大きくのけぞり、咳き込むように空気を吐き出し、呻きながら膝をつく。

「さっさと、俺の質問に答えろ! 人間を殺したことはあるのか!?」

 森巣がしゃがんで柳井の髪を掴み、睨みつけている。
 返事をしないでいると、森巣は容赦なく胴体を殴りつけた。体が揺れるが髪を鷲掴みにされているため、倒れることもできず、悲鳴をあげている。

「人を殴るのは趣味じゃない。けど、趣味じゃないだけだ。ほら、さっさと答えろよ。人間を殺したことはあるのか?」

 呻く柳井先生に、森巣は舌打ちをし、拳を振り上げた。

「ありません!」
「吉野みすずを殺したのはお前じゃないのか?」
「それは--」

 柳井先生が答えるよりも前に、急かすように森巣が柳井の脇腹を再び殴る。鈍い音が響き、柳井の体が悲鳴と共に揺れ動く。「どうなんだ? さっさと答えろ!」
「違います、違います。“先生”からギロチンを買ったのは、四月になってからですし」
「先生はお前だろ? とぼけてるのか?」
「違います。“先生”っていうのは別人です。あの人のことは、詳しくは知りません……馬車道の裏カジノで紹介されたんです」

 森巣が柳井先生の頬を平手打ちし、乾いた音が鳴る。柳井先生が情けない悲鳴をあげる。目の前で行われる暴力行為に顔を背けたいけど、首を動かせない。

「チッ、紛らわしいな。じゃあもう一度聞くが、吉野みすずを殺したのはお前じゃないんだな?」
「……違います」
「他に知ってることは? “先生”って奴が吉野みすずを殺したのか?」
「し、知りません。会ったこともないし、ただ、紹介されただけで」

 本当かよ、と森巣が柳井先生を見下ろし、「素直にゲロったら今なら許してやるぞ」と言った。

「本当に、知らないんです」
「そうか、残念だ」

 そう言うと、森巣は掴んでいた髪から手を離して立ち上がると、まるでサッカーボールでも蹴るみたいに、柳井先生の顎を蹴り上げた。

 柳井先生が弧を描くようにひっくり返る。床に思いっきり頭を打ちつけ、鈍い音を響かせた。
 しんとした静けさに包まれ、全てが終わったのだとわかる。
 ゆっくりとした足取りで森巣がやって来て、僕を見下ろした。

「待たせたな。超短時間作用型の薬は、すぐに効く代わりに持続時間が短い。平が動けるようになったら、犬を連れて帰るぞ」

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