第28話「文化祭トイレのクリスマスキャロル」
キング9
文化祭が始まり、すぐに小南に会いに行ったが、クラスにはいなかった。
登校はしているらしいが、呼び込みに出てしまっているらしく、どこにいるかはわからないと言われた。小南を探し回ってみたのだが見つからず、もしかしたら向こうから来るかもしれない。そう考えて古本市で待つことにした。
「お疲れ様」
顔を上げる。そこには氷見がいた。爽やかな笑顔で手を挙げている。「ミスター苺原が仏頂面してちゃだめだよ」
「何しに来たんだよ」
「文化祭実行委員長だから、巡回に」
「見ての通り平和だ」
「実はちょっと注意してもらいたいことがあってな」
氷見は周囲を警戒するようにきょろきょろとしてから口を開いた。
「野球選手の落合久二とモデルの野茂桃子がお忍びで来るんだってさ。放送部でインタビューをするらしい」
「ガセじゃないのか」
「針ヶ谷って女の子が教えてくれたんだよ。注意喚起だってさ」
そういうことで、よろしく頼むぞ、と言って氷見が去っていった。
「俺たちには関係がなさそうだな」
今日も古本市の店番をしている鈴木に言うと、鈴木は「そっすね」と短く返事をしてから、「先輩、質問していいっすか?」と言葉を重ねた。
「なんだよ」
「怒らないでくださいね」
「そんな約束はできない」
鈴木が躊躇し始めたので、逆に気になってしまう。
「早くしろよ」
「両親がいないって本当ですか?」
いきなりディープな問題だな、と眉間に皺が寄る。
「実は、おれもいないんすよ。つっても父親はいるんですけどね。母親は子供の時に病気で死にました」
両親がいないとか、片親だとか、そういう境遇なのが自分だけだと不運に酔ったことはない。境遇が似てるから気を許すわけではないが、それを聞いて、答えてやろうという気にはなった。
「うちは、離婚してどっかで二人とも生きてるよ」
「それで先輩は人間不信なんすか?」
「人間不信じゃない。うるさいのが嫌いなんだ」
「先輩は性格があれですけど、顔良いですもんね」
「喧嘩売ってるのか?」
「うるさいのが嫌いって言う割に、おれに話しかけてくれるし、先輩には幼馴染がいる」
「幼馴染くらい誰にでもいるだろ」
おれにはいませんよ、と鈴木は首を横に振った。
「帰宅部で常識人のツッコミタイプで、ちょっと孤独で幼馴染がいて、人付き合いが苦手なわりに、最後は手を貸すタイプなんて、なんか主人公っぽいですね」
「その主人公、人気ないだろ。俺に両親がいないって、誰から聞いたんだ?」
「女子っすよ。誰かは忘れましたけど」
「迷惑な話だ」
「でしょうねぇ。こういう時に有名人の名言を知ってたら、森谷先輩の気休めに協力できたんでしょうけど。出る杭は打たれる、的な」
「救いがない」
「憎まれっ子世に憚る、なんてどうでしょう」
「気が楽になったよ」
鈴木が薄く笑う。
鈴木は俺に気に入られようとか仲良くなろうという気配がない。俺が野良犬だったとしても、普通に世間話をしてきそうだ。つまり、そのくらい暇なのだろう。
「偽りの自分を愛されるより、ありのままの自分を憎まれる方がいい」
鈴木が突然そう言うと、詩を読むように言った。何を言い出すのか、と困惑しつつも、その言葉は時間をかけてゆっくりと自分の中に沁みこんできた。頭の中で諳んじて、悪くないと思い始める。
「同級生が言ってて、あっこいつは言うことが違うなぁと思ってたら、カート・コヴァーンってミュージシャンの受け売りだったんですよ。それをおれは森谷先輩に受け売りしてるんですけどね。受け売りの転売っす」
「俺を励ます言葉ではないけどな」
「そっすね。この名言を教えてくれたやつ、今日バンドを組んでステージで演奏をする予定だったんですよ。ピースオブケイクスっていうバンド名でね」
「安直なバンド名だな」
「ですね。ステージで演奏するのはくじ引きで取り合いになります。それで、そいつは勝ちました。でも、ステージでダンスをしたかった上級生が勝手に友達のバンド名を『ピッツァおでぶす』に書きかえたんですよ。それで印刷されちゃって、出場辞退です。友達はそれでも屈さずに出る気まんまんだったんですけど、他のメンバーがね、恥ずかしがっちゃって」
「出たいなら一人で出ればよかったじゃないか」
「そいつ、パートがベースなんですよ」
じゃあ、バンド演奏にはならないな、と飲み込んだ。
「トイレに行って来る」と告げて、俺は立ち上がった。
鈴木が俺をちらりと見たが、すぐに漫画本に目を伏せた。
長机と壁の隙間から外に出て、トイレへ向かう。
一番近くではなく、校舎の隅にあるトイレへ向かうことにした。教室と離れているからか中は狭いが、事務室や校長室に近いからタイル張りで雰囲気が違う。そしてなにより、静かだ。
誰もいないトイレに入り、個室の鍵をかける。
洋式便器の蓋をし、腰かけた。文化祭の喧騒が全く聞こえてこなくて、ここは落ち着く。
俺はずっとここにいればよかったのだと今更思う。蚊帳の外にいて、平穏に過ごすにはここにいればよかったのだ。
クリーム色のトイレのドアを見ながら、ぼーっとこれからのことについて考えを巡らせる。ミスター苺原なんて汚名を背負ってしまった。それは仕方がない。降ってくる雨に対して、抗議をするなんてばからしい。
それよりも、小南の問題か。
俺は昨日、保身のために小南を信用せず、結果自業自得とも思える結果に陥った。ステージの上から見えた小南は「言った通りでしょ」と言わんばかりの悟った顔をしていた。
両親が離婚し、俺は祖父の家に預けられた。子役の仕事も辞め、人が離れて行く中、変わらずそばにいてくれたのは小南だけだった。それに俺は、少なからず支えられていた。なのに今は、自分のことしか考えない奴になっている。恩義を返すべきではないのか。
二日目の今日、小南は何をするのだろうか。徘徊し、手当たり次第に文化祭の出口を探すのだろうか。それとも、正解はここにはないと高校を出て町へ繰り出すのか。
それで、再び文化祭一日目に引き戻されるんだろう。
そんなことを考えていたら、ぺらぺら、本をめくる音がした。隣の個室に誰かいる。
小さな音で気付かなかったが、時折鼻をかむ音が聞こえた。隣は閉まっていたから掃除用具入れかと思っていたが、どうやら先に学校内で引きこもっている奴がいたようだ。
「何を読んでるんだ?」
静かでひんやりとしたトイレの中で、その声が響いた。ふわっと突然生まれたその声が、自分の口から出たものだとしばらくして気付き、驚く。
「『クリスマス・キャロル』です」
よく通る、透明感のある声が返ってきたことに更に驚いた。
「文化祭中にトイレで読むには相応しい本だな」
『クリスマス・キャロル』は、クリスマスの夜に三人の幽霊に連れられて過去と現在と未来を見せられ、自分の今までの振る舞いを悔い改めて優しい老人になるという話だ。
「古本市で買ったんですけど。文化祭で古本市をやってるの知ってますか?」
「あぁ、知ってるよ」
よく知ってる、という言葉は飲み込んだ。代わりに、その本の感想を言う。
「俺には、スクルージが悪いとは思えない。守銭奴で冷酷無慈悲でエゴイストの何がいけないのか。幽霊を使って脅され、彼の性格が変えられていくのが気に食わない。それに、不思議なことでも起きないと人間は変われないのか? 自分の意思じゃなく、他人に捻じ曲げられるのにも腹が立つ。集団の求める個人の理想像に飲み込まれた、悲しい話だ」
直接相手が見えないし、俺はいつもより饒舌に喋ってしまった。しばらく反応が返ってこず、怒らせたかと気になった頃に壁の向こうから、小さな笑い声が聞こえてきた。
「文化祭の間にトイレに引きこもるような奴は、思考が似てるのかもしれませんね。同じトイレのむじな、という感じでしょうか」
「最悪の響きだな」
自分で言ったくせに、相手はまた奇妙な笑い声をあげた。
「私はこの話を映画でしか観たことがなかったんですよ。もしかしたら、劇場版はオリジナル展開で、原作は違うってことがあるかもしれないじゃないですか」
「結果はどうだった?」
「読んでみてビックリです。ぼくたちの愛すべきエゴイストのスクルージはたったの二十二ページしかいない。後は、幽霊に怯える小物でした。ガッカリですよ」
「俺は原作を読まないことにするよ」
「でも、ぼくはスクルージを責められないなと思いました。どういうプロセスであったにせよ、彼が善人になると決めたのなら、部外者である自分は関係のないことだなと思ったんですよ。エゴイストの自分でありたかったけど、慈愛のある人間であるという発見をしたのなら表面的に変化は見られても中身は変わらないと思うのです。ジャンケンでチョキを出すかパーを出すかのような違いです。主体は変わっていない気がしませんか?」
「つまり、スクルージがパーを出すって決めたのなら、個人の決断だからけちをつけないってことか?」
「他人のジャンケンに、なんでパーを出すんだと目くじら立てても仕方がないでしょう」
「確かにそうだが、じゃんけんと同じレベルの話か?」
説明を聞いても、溜飲は下がらない。
「同じですよ」
「お前と俺は似ていると思ったけど、違うみたいだな」
「なんだか、すいません。ぼくには、大切な友人が二人もいますからね」
お前は友達がいなさそうだな、と壁越しに言われたことが、なんだかおかしくて笑ってしまう。俺の反応を気にせず、彼は言葉を重ねた。
「ぼくはスクルージみたいに、みんなに迎合することはできなかったので、自分の友人を作ることにしたんです。素敵な人を見つけて、友達になろうと誘ったんです。ぼくは絶対に何が起きても二人を大切にするし、真っ直ぐな人間であり続けることを誓って。最初はだいぶ煙たがられましたけどね」
「お前は立派だな」
これは、本心だった。俺は小南を裏切ってしまった。それに、日頃も自分から人間関係を築きこうと動いたことがない。人はどうせ離れて行く。寄せては返す、波のようなものだ。自分から、波打ち際に近づこうとは思わない。
「でも、あなたがスクルージに裏切られたと感じる時点で、あなたは他人に期待しているのかもしれませんよ。あなたの中にも、そういう変化の芽はあるのかも。あなたが規定するあなたの像に、あなた自身が束縛されてはいけないと思います」
「壁越しだと、なんだか懺悔室にいるみたいだな。神父に説教されてる気分だ」
そう言って、コンコンと隣室との仕切り壁を叩く。乾いた音が空しく響いて、消えた。
言われるまでもなく、他人は他人だ。何も期待なんてしちゃいない。だから、相手の言うことはもっともだ。
「ここが懺悔室なら、謝るのはぼくの方です。エチケットの問題です。ごめんなさい、そろそろ」
「わかった、退散する」
俺は立ち上がり、扉を開けた。手は洗わなくてもいいだろうと、真っ直ぐ出口へ向かう。
芳香剤の匂いが漂うトイレを出る前に、立ち止まって振り返ってみた。奥の個室は扉が閉まっている。だが、その中にはもう誰もいないのではないか、という気がした。
文化祭の幽霊と話をしていたのではないか?
もちろん、確かめることなく、外に出る。
小南を探さなくては。