クビキリ(2稿-17)
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もはや、森巣がどこを走っているのかもわからない。いつまで経っても教科書の同じ問題でつまづいている生徒を諭すように、森巣が「説明するからよく聞いて」と優しく話し始めた。
「瀬川は犬を奪うくらい思いっきり突き飛ばされた。掛けている眼鏡も外れたと言っていた。なのに、瀬川は犯人の逃げた先も、パーカーの文字まで覚えていた、これはおかしくないか?」
瀬川さんの眼鏡は結構度が強そうなのは見ていてわかる。眼鏡を外すと、話している相手の顔も見えない、と言うタイプだ。
「実は平と別れてから、ちょっと裏を取って来たんだ」
「裏?」
「犬を拐われた日は、瀬川の妹の誕生日だった。あのカフェで妹の為のケーキを受け取っていた」
「うん、そうみたいだったね。三田村さんと話していた」
「ケーキを取りに行ったのは五時頃だったそうだよ」
森巣がそう言って、説明を止めた。
ん? それで? と視線で尋ねる。
「犬の散歩の時間と被っている」
「それのどこがいけないの?」
「その時、犬は何処にいたんだろうね?」
どこにいたのか? と首をかしげると、思考の整理するのを手伝うみたいに森巣が解説を続ける。
「犬が拐われた後、呑気にケーキを受け取って家に帰ると思うかい? 拐われた後にケーキを受け取りに行ったんだとしたら、三田村さんは事件のことを知っているはずだ。だけど、三田村さんは事件を気にかけている様子はなかった」
「つまり、犬が拐われる前にケーキを受け取っていた、と。でも、散歩中だったんでしょ? 犬はどこに行っちゃったの?」
「店のそばの電柱にでも繋いでいたんだろうな。そして、その間に拐われたんだ。それが真相だよ」
犬の散歩中に、犬を店の外で待たせて、ケーキを受け取る。森巣の言うことはわかった。
わかったけど、わからない。
「なんで、瀬川さんは突き飛ばされたとか、拐われたとか、そんな嘘を吐く必要があるわけ? 普通に、ケーキを受け取っている間に盗まれたって言えばいいじゃないか」
森巣が「平」と優しく諭すように僕の名前を呼んだ。
「平は瀬川のことを、真面目で、みんなに優しい清廉潔白な委員長、そういう風に思ってないかい?」
瀬川さんはまさしくそういう人じゃないか、と思って頷く。
森巣が、テーブルの上にあったバナナホルダーにかかっているバナナを一本むしった。人の家のものを勝手に! と思ったけど、森巣はそのバナナをこちらに向けながら「きれいは汚い、汚いはきれい」と『マクベス』の言葉を口にしながら回転させた。
こちら側から見えたバナナは健康的に黄色かったが、向こう側から見えるバナナはいたみの所為で茶色く変色していた。
「イメージだけが全てじゃない。瀬川も人間だ。暗い側面を持っている」
森巣はそう言ってバナナの回転を止めて、そっとテーブルに置いた。
「何故嘘を吐いたのか。簡単な答えさ」
勿体をつけずに教えてほしい、と僕は身を乗り出す。
「保身だよ。自分を守る為に、嘘を吐いたんだ」
保身? 何から身を守ろうと思ったんだ? と僕は首をかしげる。
「この町には、動物の首を切るような奴がいることを忘れてない? そんな町で一時的にだけど犬を放置した。家族は、どう思うかな?」
想像してみてくれ、と言わんばかりの強い目で見られ、頭の中で考えを巡らせる。もし、僕が瀬川さんだったら、と。
クビキリ事件が起きているような町で、犬を係留するのは無用心だ。
それが家族にバレたら……年の離れた妹からは「お姉ちゃんの所為だ」と非難され、厳しい両親からは「不用心だ、非常識だ」と責められる日々が待ち受けているかもしれない。
「だけど、被害者になれば同情される」
「そういうことだね」
袋小路で、取り乱し、泣き崩れていた瀬川さんの姿を思い出す。あの時瀬川さんは、自分の中の罪悪感とクビキリに家族が殺されてしまうかもしれないという恐怖に押しつぶされていたのだ。
「瀬川が袋小路で犯人と犬が消えた、という奇妙な演出をしたのは、賢いね。人はムキになって謎に挑もうとするだろうから。それに、犯人の逃走経路を考えなくてすむし、目撃者が他にいないこともカバーできる」
自分はまんまと、その策にはまり、どうやって犯人と犬が消えたのかばかり考えていた。
「パーカーの文字を見たっていうのは?」
「あれは平の訊き方が悪かった。平が犯人は『Xってマークが入ったパーカーを着た奴だったか?』って訊いたから、瀬川はそうだと答えたんだ。瀬川から言い出したわけじゃなかったじゃないか」
確かにその通りだった。
「というのが、俺の考えだね」
森巣の軽やかな声が耳に届く。自分ががキーパーをしていて、森巣のシュートしたボールがゴールネットを揺らす、そんなイメージが思い浮かぶ。
僕は困っている瀬川さんの為に、足りない勇気を振り絞り、行動をした。森巣を疑い、的外れの推理を挑むように披露した。森巣にどう思われているだろう。それを考えると、顔から火が出そうだった。身の丈に合わないことをしてしまった後悔に飲まれる。
森巣は、瀬川さんの犬探しを手伝ってくれている。敵じゃないし、競う相手じゃない。それでも、真相を見抜いていた森巣と自分を比べてしまった。僕は時間を無駄にしていただけだ。自分の凡庸さを思い知らされた。こんなことなら大人しく、チラシの掲示をしていればよかったのだ。
「僕は誰の役にも立てなかったんだなあ」
弱音がぽろりと口からこぼれてしまった。助けようと思って空回り、事件をややこしくしているだけだ。前進しているつもりでいたけれど、実際は解決の為に一歩も前へ進めていなかった。
「ごめん、森巣のことを疑ったりして」
「いや、いいんだよ。平は困っている瀬川を放っておけなかっただけだろ?」
「いや、僕は困っている人が放っておけないとか、誰かの役に立ちたいだけって言いながら、心のどこかで自分にしかできないことをして、認められたかったのかもしれない。それが僕の欲望だとしたら、恥ずかしいよ」
「欲望?」
「さっき柳井先生に教わったんだ。欲望に忠実になることが、勇気を出す秘訣だって」
「なるほどね。平は勇気を出して、認めれれたかった、と。でも、いいんじゃないか? 別に恥ずかしいことじゃないと思うけどな。人には承認欲求っていうのがあるし」
「でも、森巣はそういう気持ちから動いているわけじゃないだろ?」
「まあ、俺は違うけどさ、あんまり思いつめないほうがいいよ」
「僕は、柳井先生にもクビキリの犯人がわかったって的外れのことを言っちゃったよ。本当に恥ずかしい」
瀬川さんの嘘、犬の失踪の真相、オッドアイを狙った犯行、謎をどんどん明らかにした森巣からは心の余裕を感じる。
ああ、僕は彼と少し行動を共にしている内に、彼に憧れを抱いてしまったのだな、と気がついた。森巣のように、堂々とした人になれたら、と。
僕は臆病者らしく、また人の顔色を気にする生活に戻ろう。
そうだ、顔色と言えば、と思い出す。
「ところでさ、人間も狙われる、ってことはないよね?」
「どうして?」
「さっき気がついたんだけど、柳井先生もオッドアイなんだよ。もし人間も狙われていたら、危ないなと思って」
「そうなんだ……でも、人間は狙われないんじゃないかな」
「どうして?」
「去年、人間が一人首を切られて殺されている。だけど、彼女はオッドアイじゃなかったよ」
「去年もあったんだ!?」
「吉野よしのみすずっていう女子大生が殺されている。覚えてない?」
眉根に皺を寄せ、腕を組み、去年のことを思い出す。だけど、去年もたくさん陰惨な事件があった。森巣の「花屋の」とか「八景の海岸で見つかった」という言葉が、頭の中の記憶を呼び覚ます。
「あった!」
頭だけが海岸で見つかったこともさることながら、マスコミが遺族の経営する花屋に押しかけ、カメラやマイクを向け、「娘さんが殺害された気持ち」や「物騒な事件に巻き込まれるような危ないことをしていたのではないか?」と無神経なことを質問していて、辛い思いをしているんだからそっとしておいてあげてよ、知る権利とはなんなのか、と辟易としたのを思い出した。
社会では、他にもたくさん陰惨な事件が起きている。誰かが虐げられ、誰かの命が奪われ、ニュースで毎日のように流れてくる。見たくないもの、知りたくないものとして、僕は記憶の隅に追いやり、忘れてしまっていた。
そう言えば、森巣は僕にクビキリのことを調べていると言っていた。その理由は何故だろうか。僕は瀬川さんの為だけど、森巣がクビキリを追う理由がわからない。
森巣が鼻先まで持ち上げていたティーカップをゆっくり下ろした。
「平は目が良い。でも、ちゃんとわかっていない」
背筋がぞくりとするような、氷のような表情をしていた。