100万円ゾンビ(初稿−8)
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膝の上のボディバッグに入っているのは百万円だが、それが爆弾に思えてきた。ドカンと爆発するのではないか、と気が気ではない。僕はただ、事件に巻き込まれているだけだ。一市民、一高校生の僕が、爆弾をいつまでも抱え、怯えている必要はない。
「警察に行きましょう」
それが手持ちの駒で唯一指せる手である、というか手持ちに駒なんてないのだから、それしかない。そう思ったのだが、小此木さんは露骨に顔をしかめて、「えー?」と不平を露わにした。
「まだ早いって。もう少し自分たちで考えようよ」と小此木さんが下唇を突き出す。
「まさか警察が嫌とか、森巣みたいなこと言わないですよね?」
森巣にはそういう、反抗的なところがある。平気で嘘をつくし、警察を毛嫌いしている。森巣がしていることが黒よりのグレーゾーンだからというのもあるけれど、ただ単に大人を毛嫌いする子供みたいな感じだ。
しかし、生徒の見本であるべき、生徒会長の小此木さんは常識的な行動を取らなければだめでしょうにと思ってしまう。
「日本は法治国家ですよ。僕らは子供だし、犯罪に巻き込まれているなら、頼るべきは警察ですって。きっとなんとかしてくれますよ」
「警察って言ってもさ、映画みたいに傷だらけの血まみれになりながらガラスの上を裸足で歩いて強盗をやっつけたり、子供の為に最後の一秒まで爆弾処理に挑む熱心な人ばっかりじゃないよ。自分たちなりに気を配っていたのですが申し訳ありませんとかって言われて、はいお終い、事件解決さようならってこともあるんだから」
何故例えがアクション映画よりなのか、というのも気になるけお、小此木さんの語調に気圧される。子供の頃に小此木さんが、母親の恋人から酷い目に合ったという話をうっすらと聞いた。それが関係しているのかもしれない。手順が前例が云々とマニュアル対応をされるよりも、憎い相手を通快にぶっとばしてもらった方が満足するだろう。
でも、一人の警察官が失態を犯したことで、他の警察官はどう思うだろう。「あいつとは一緒にしないで欲しい、自分のことは信じてくれよ」と思うのではないだろうか。僕らだって、「最近の若者は」と一緒くたにされたら不愉快になる。それと同じではないか。
「やる気を漲らせた、熱血警察官もいるかもしれませんよ」と庇ってみる。がんばっている人がいる、と信じることを忘れてはいけないと思う。
「やる気が空回ることだってある」小此木さんは頑なだった。
この場に森巣がいたら、「警察にやる気があるわけないだろ」とか決めつけで一蹴するだろう。
思えば、小此木さんは僕より森巣との付き合いが長い。その分だけ、森巣の考えに毒されていたり、それなりに意気投合してしまっている部分があったりするのかもしれない。生徒会長も一筋縄ではいかないのか、と眉間のあたりを揉んでしまう。僕が間違っているのか?
「なにも、警察に絶対行くなと言っているわけじゃないんだよ?」
「そうだったんですか?」
「そりゃそうだよ。手に負えないこともあるんだから」
「じゃあ、もう行きましょうよ」そしてさっさと事件から解放されたい。
小此木さんは右手の人差し指を立てて、ちっちと意味深に振り、
「警察に行った後、戻って来たらどうする?」
とまた予言めいたことを口にした。
「誰がですか?」
「どっちでも。ゾンビでもいいし、あの三人組でもいい。それで、『おい、さっきの百万円を返せよ』って言って来たらどうする?」
「警察に渡したから、もうないですって言いますよ」
「それが通用する相手ばっかりじゃないかもよ? そんなのは知らない、お前の都合じゃないか。いいから返せって詰め寄られるかもしれない」
「理不尽な」
「理不尽で、話の通じない相手ってのはいるんだよ」二つしか年の離れていない小此木さんが、全てをお見通しのような口調で言った。だが、それは嘘ではない。
車椅子に乗る妹にわざとぶつかってきて「痛えじゃねえか」と絡んで来た奴がいた。そして「座って運ばれて優雅なもんだな、偉そうに」と因縁をつけてきた。
あのとき僕はかっとなり、「偉そうなのはそっちだろ、ぶつかって来たんだから静海に謝れよ」と前に出た。
「謝れよ」と低く唸るような声で迫られたので、謝る理由がないと断ると、胸ぐらを掴まれて顔を殴られた。
世の中には一方的な理屈を押し付け、暴力で脅し、自分の思い通りにしようとする輩もいる。思い出すだけで、口内で血の味が蘇るなあ、左の頬を撫ぜる。僕が殴られた後に、静海が車椅子でタックルをしたこと、駅員が止めに来たこと、母親が僕らを褒めたことも思い出す。
「というわけで」
小此木さんの声ではっとし、我に返る。
「まずは自分たちで考えようよ。その百万円は、切り札にもなるからさ」
「じゃあ、時間を決めましょう。小此木さん、六時に用事があるって言ってましたよね。それまで、考えましょう。で、タイムアップになったら、警察に行く、それでどうでしょう?」
「それで大丈夫! ちょっと考えてみよう」
屈託無く微笑む小此木さんを見ながら、時間がないなら、頭をフル回転させなければと眉間に力を入れる。僕に因縁をつけられるだけならまだしも、僕を脅す為に家族を持ち出されるなんてことはあってはならない。
「あっそうだ、封筒の中身はお金だけだった?」
「多分」と答えつつ、人前で札束を出すのは憚られたし、ぱらっと確認した程度だから、ちゃんと枚数も確認していないと思い、「一応、見てみますか」とボディバックを開けて、茶封筒を取り出す。
一人だと不安だけど、小此木さんがいるから、札束の入った封筒を外で持つことにも耐えられた。周囲を確認してから中を覗き、右手を入れる。
指先が、すべすべした質感の一万円札に触れる。そっと一枚一枚捲ってみるも、数枚だけ本物で、中は新聞紙なんてこともなかった。一枚一枚数えながら、何か挟まっていないかを確かめる。
「何か入ってる? 鍵とか発信機とか」
「いや、やっぱり、そういうのはなさそうですよ」
指が百一枚目の紙に触れた。てっきり、百万円だと思っていたので、袋の中を覗き込む。
一番後ろに、白い紙がまざっている。指で挟み、するりと抜き出す。
紙には、黒いボールペンの文字で丁寧にこう書かれていた。
『何卒、内密によろしくお願い致します』