ケイク
生きていれば、納得できないことに直面することはある。その理由ってのは、たいてい仕事が原因だ。趣味や友人関係なんかだったら、多少の融通は利くだろう。でも、仕事となるとそうはいかない。プロフェッショナルとしての意識を持って、割り切ることが大切だ。
「納得できねぇなぁ」鰐淵<<わにぶち>>が、ぼやく。
「そう口にするのは、プロじゃない」俺は、指を向け、指摘する。
「さっきから見られてる気がしないか?」
鰐淵は、ラグビーでもアメフトでもアイスホッケーでもなんでもいいが、人と衝突するスポーツをやっていそうな体格をしている。そんな男が、黒のスーツ姿で小さな椅子にこじんまりと座っているのだから、ケーキ屋にいる他の客が気にしてしまうのは無理もない。
「鰐淵、そのサングラスを外したらどうだ」
「叶<<かのう>>、お前こそ目つきの悪い三白眼をなんとかしたらどうだ」
「生まれつきだ」
俺は机の上に置かれたフォークを手に取り、皿の上のケーキを見る。イチゴにサクランボ、パイナップルにあと、これはキウィだろうか。『季節のフルーツタルト』という名に恥じぬタルトケーキだ。皿にはイチゴソースで花の模様が描かれていて、恥ずかしくなる。
「おい叶、なんなんだろうな、これは」
「これはケーキだ。知らないのか?」
「俺の知ってるケーキは、生クリームとイチゴが乗ってるやつだ」
鰐淵の方に視線を送ると、大きなマンゴーの乗ったケーキが皿の上に鎮座していた。ムースの層がなんとも鮮やかだ。鰐淵もフォークを持ったまま、どうしていいのかわからない様子で眉を歪めている。
自分の容姿を見て、人がどう思うかは仕事柄把握している。いや、仕事以前だ。俺は小学生の頃から目つきが悪く、それでいて近所のおばちゃんが「ちゃんと食べてるの?」と訊いてくるほど頬はこけ、不健康そうな顔色をしている。
俺と鰐淵は、そんなお互いの容姿も理解し、それを利用してさえいる。そんな俺達が、何故ここに? と店内を見渡す。
壁はピンクだし、きらきらのシャンデリアやロココ調の椅子が、なんだか攻撃的な可愛らしさで居心地が悪い。周囲にいるカップルや女子高生たちは、緊張した様子で俺たちをチラチラと窺っている。
「いいから黙ってケーキを食えよ、簡単な仕事だ」
俺たちは、頼まれたらその仕事をこなす、という乱暴な説明で済む仕事をしている。取引を安全に済ませる為に警護してくれであるとか、盗まれた物を強引に取り返してくれであるとか、手段は選ばずに相手から情報を訊き出せ、などの依頼を受けて実行する。
今回は、「店で一番高いものを買え。お前たちも試して、良い物だったら私にも買ってこい」と地図を渡された。依頼主は、鎌倉にある名家の主人で、白髪に鷲鼻、眼光の鋭い男だった。富と名声と、部下の生活を守っている貫禄がある。
骨董品なのか、それとも物騒なものなのかと疑いながら足を運ぶ。
名家の男が指定したのは、銘菓の店だった。
レジには、三十代後半に見える女が立っていた。顔に少し皺があるが、化粧が薄くて鼻が高く、品を感じさせる美人だった。
「この店で一番高いものを」
「季節のフルーツタルトと、マンゴームースケーキになりますが、いかがなさいますか?」
俺と鰐淵は顔を見合わせ、それを注文し、今に至る。
「なんだって、こんな店でケーキを食わなけりゃならんのだ」
「食べてないじゃないか」
「どう食べていいのか、わかんねえんだ」
「ピース・オブ・ケイク」
「ケーキの平和?」
「英語のことわざで、『楽勝』ってことだ。ケーキを一切れ食うくらい楽勝ってことだろうな」
「難しいぞ、これ。ことわざってのは当てにならねぇな」
「まあ、そうだな。『子はかすがい』とかな」
「しょっぱいねぇ」
何故、あの男はこんな依頼をしてきたのだろう。この店がケーキの店だと知らなかったのだろうか。いや、事前に何の店なのか情報を与えなかったのは知っていたからだろう。
それに、何故こんな柄の悪い俺たちを使う必要がある。秘書にでも買いに行かせればいいではないか。
人の顔を殴るのはなんとも思わないのだが、綺麗に飾られたケーキにフォークを突き刺すのには、罪悪感を覚える。
だが、これは仕事だ。
俺は迷いながら、フォークをケーキに突き刺し、口に運んだ。
口の中に、サクランボの風味とカスタードの甘みが、ふわっと広がる。イチゴソースには酸味があり、素晴らしいアクセントになっている。噛み締めるたびに、口の中に香ばしさや果物の甘さがはじける。
前を見ると、鰐淵がフォークを咥えたまま固まり、ケーキを凝視していた。
俺と鰐淵は無言で頷き、ちまちまとフォークを使って、慎重に、丁寧に、惜しみながらケーキを口に運んだ。甘いものを普段食べないからなのか、それともこのケーキが特別美味いからなのか、感動さえ覚えている。
食べ終えると、しばらく放心状態になった。さっきまでケーキがあった筈の皿は、雪原のように白くなっている。
「もっと買いたいな」と鰐渕がつぶやき、「それも仕事だった」と思い出し、俺たちはレジへ向かった。
「いかがでしたか?」とレジの女が、訊ねてくる。俺と鰐淵は、恥ずかしさを感じることもなく、敬意を持って大きく頷いてみせる。「天才的に美味かった」と。
「それは嬉しい。お店を始めてよかったわ」
「お前の店なのか?」
「友達をそそのかしちゃいました。いいから一緒に始めようよって」
さっき食べたケーキと、ショーケースの中にある宝石のようにキラキラしているものを幾つか注文する。
女が白い箱を組み立てて、ケーキを仕舞っていく。持ち運びの為に取っ手が折られ、家のような形になった。
俺はそれを見つめ、一拍置いてから、訊ねる。
「父親には、この仕事を秘密にしているのか?」
「え?」
「俺の勘違いなら流してくれ」
女は、一回深く息をすると、「やっぱり、父に言われて来たのね」と頬を緩めた。
「さっき、笑いながら食べてたでしょ? 嬉しかったわ」
「俺は笑っていたのか?」
なんだか少し気恥ずかしくなり、頭を掻く。
「母がね、家族の誰かが誕生日になるといつもケーキ焼いてくれたのよ」
女がショーケースに並んでいるケーキを見る。その視線からは、自分の子どもを慈しむような、そんな優しさを感じた。
「買えばいいのにって眉間に皺作ってぶつぶつ言ってた父も、ケーキを食べたら嬉しそうに笑ったの」
「それで、ケーキ屋なのか?」
「誰かが笑顔になるものを作るなんて、素敵じゃない?」
女は歯を覗かせ、少女のようなあどけない表情になった。
父親は娘がケーキ屋を始めたと知り、顔を合わせ辛いからか、誰かに様子を窺わせに行かせることにした。ついでに、俺たちのような門外漢が「美味い」と感じるか、試そうと思ったのだろう。
でも、俺たちみたいな客が来たら営業妨害ではないか? と案じたが、そうでもないらしい。店内の客たちは、ケーキを買って帰る俺たちに、親しみの籠もった視線を送ってきている。「ごつい男達もハマってたよ!」と口コミにでもされそうな気がしてならない。鰐淵が睨めば全員視線を外すだろうが、鰐淵はバツが悪そうにそっぽを向いている。
それを見て、俺は考えを改めた。
父の狙いはもっとシンプルで、俺たちのような男が素直に感動する姿を、娘に見せたかったのかもしれない。
「あの父親に頼らず、店を開くのは立派だ」
女が「昔は、若くてこわいものなしだったのよ」と胸を張る。今でも、そうなんじゃないのか? と俺が軽口を叩くと、「かもね」と笑い返された。「今でも若いわね」と。俺は、そっちではない、と苦笑する。
「ねぇ、ケーキをオマケするからお願いしてもいい?」
「なんだ?」
「お父さん、もうすぐ誕生日なの。食べに来てよって伝えてくれない?」
女からケーキの箱を受け取る。意外とずっしりとしていて、握る手に力が籠る。鰐淵はいつの間にか少し離れたところに避難して、難しそうな顔をして空を見上げていた。
これから、あのゴツイ男とケーキを持って依頼主の元に戻り、女からの伝言を伝える? そんなことは、あれだ。
「楽勝だ」
(了)