繋がる二人の物語『セッちゃん』
読書感想文4冊目
『セッちゃん』(大島智子)
本格的に冬である。歯がガタガタ震え、外で本を読んでいると、手がかじかんでページをめくるのが大変な季節になった。家の中にいても寒い。どてらを着て、こたつの電源入れて、湯呑みでお茶を飲みながら、原稿をもそもそ書いている。
今年のこのマンガがすごい!も発表されて、読みたい本だらけになってきた。原稿を書き、積ん読を消化し、新たな読みたい本を読む。充実している。
だが、これをリア充とは呼ばんのだろう! わかっとるわい!!
寒くなると、人肌恋しくなる季節とも言う。そんなあなたに、『セッちゃん』だ。
大学生のセッちゃんは、誰とでも寝る女の子だ。セックスの「セ」でセッちゃん。セッちゃんは中学生の頃から、誰かとセックスをしている。が、どうやら恋をしたり、誰かと付き合いたいという願望はない様子。
誰かに必要とされたいわけではないし、快楽に溺れているわけでもない。ただ、セックスという肉体を使った行為をしている間だけ、自分以外の人間がいるということがわかり、それが「いいな」と思っている。
付き合おうと言われると、嫌だなぁと思っているみたいだし、彼女はセックスをしたいだけなのだ。
そんな彼女が、あっくんという男の子と出会う。
あっくんは友人もいるし、何事もそつなくこなす大学生に見えるが、高校の時にクラスメイトの死体を見つけた過去を持つ。それ以来、「あっち側」と「こっち側」という感覚を持ち、他人との関係に一線引いてしまう。
みんなでわいわいが「あっち側」、自分と死体が「こっち側」になってしまった。たまに死体を思い出し、感傷に浸りながら、暮らしている。
物語の中で、大学ではデモがあり、テロに走る者もいる。「あっち側」のみんなは社会問題に夢中で、自分もなにかをしなければ、と活動している。
でも、「こっち側」の人間からしたら、ふうん、という感じだ。みんなが何かに熱狂しているとき、参加しきれない、興味がない、と思う気持ちに共感できる。デモやテロで何が変わるわけ? そもそもそれに興味がないわ、と。
セッちゃんとあっくんは「こっち側」にいる。社会から一歩引いてる者同士、だんだん仲良くなっていく。この距離感が、物語の肝であり、美しさだと感じた。
二人は議論をしないしセックスもしない。だけど、たまに冗談を言い、一緒にいると「なんか落ち着く」関係になっていく。セッちゃんとあっくんが一緒に美味しくないカレーを食べるシーンがあるのだが、そのときの気持ちの変化や二人ぼっちの光景が、なんだかとっても素敵なのだ。ありふれた日常の中に、美を感じた。
みんなで何かに夢中になるよりも、二人で美味しくないカレーを食べている時間の方が、かけがえのないものじゃないか? そう思わせてくれる。
人は一人では生きていけない。でも、みんなと同じようにはなれない。人と違うせいで、弾かれる。
それでも僕らは、出会いたいのではないか?
なので、自分以外の人間がいると安心するセッちゃんと、精神的ひとりぼっちだったあっくんの出会いに、ぐっとくる。
個人の価値観があると思うけど、私はセックスをしたから人と人が仲良くなれるとか、良い人間関係になれるとは思っていない。もっと、心と心で繋がりたいのだ。いや、たまに話せるだけでいい。理解し合えなくても、寄り添えればいい。自分以外の他人がいて、それを幸せなことだと思いたい。
だからこそ、セッちゃんとあっくんの、付き合わないしセックスもしないけど、「なんか落ち着く」関係に神々しさを感じる。この二人の関係ってなに? 友達ではない異性、でも二人が出会えてよかったねと思える関係。
それって要は、運命の二人じゃないのか?
『セッちゃん』以上ッ!
ではではまたまた
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