クビキリ(2稿-21)
21
初めて会ったマリンちゃんは写真で見るよりも愛嬌のある顔をしていた。青い右目は神秘的だけど、この犬の価値は目だけなんかじゃない。
マリンちゃんは、自分の首が切り落とされるかもしれなかったなんて、夢にも思っていないだろう。僕たちを先導して歩き、時々無邪気な笑顔で振り返る。犬は口を開いていると笑っているように見えて、こちらの頬も緩んでしまう。
「犬は呑気なもんだな」
リードを握る森巣が、尻尾を振って歩く犬を苛ついた顔で見ている。人格者で、みんなの人気者の森巣はいなくなっていた。
「おい、平、まだふらつくか?」
「まだ、少しふらふらするけど、大丈夫だよ」
頭を軽く振る。が、余計具合が悪くなり、吐き気を覚えた。
「でも森巣、本当にいいのかな? あのままにしちゃって」
「警察には通報したし、別にいいだろ。警察や学校で騒がれると、俺はすごく面倒臭い。でも、クビキリ犯を捕まえたってなれば、ヒーロー扱いされるかもしれないな。戻りたければ一人で戻っていいぞ」
「嫌だよ。あの場所に戻るのは怖いし。それに、あの状態の先生をなんて説明したらいいかわからない」
「俺の名前を出したら殺す」
冗談に聞こえない。
「絶対に、言わないよ」
柳井を椅子に縛り上げてから、固定電話で百十番に電話をかけ、そのまま僕たちは家を後にした。柳井に拳を振るう森巣も怖かったけど、その後の手際の弱さも恐ろしかった。
「あのさ、森巣、いくつか質問があるんだけど」
「なんだ?」
「……君って二重人格ってわけじゃないよね?」
「そんなわけないだろ。学校じゃ愛想ふりまいてるんだけだ。いいか、絶対に余計なことは言うなよ」
「言わないよ。僕が言っても、きっと誰も信じてくれないと思うし」
「賢明だな」
森巣がにやりと白い歯を覗かせる。
「柳井先生の家で、僕を殴ったのはなんで?」
「痛みががあれば、気絶しないと思ったからだ。お前が眠って、目覚めるのを待つのは面倒臭いからな」
もしかしたらと思ったけど、やっぱりそうだったか。やり方は他にもあったのではないか? と思ったけど、痛みのおかげで僕の意識が飛ばなかったのは事実だな、と不満を飲み込む。
「それで、ガレージには何があったんだい?」
「知りたいのか?」
「いや、やっぱりやめておくよ。聞きたくない」
「でかいギロチンと、ビニールプールと、瀬川の犬と--」
「聞きたくないって言ったのに!」
僕の抗議を聞き、森巣がけらけらと笑う。本当かどうか疑わしいけど、目だけは爛々としていて、嘘をついているようには思えなかった。警察が踏み込めば、きっとクビキリ犯と結びつけてくれるようなものが残っているのだろう。
そうこうしている内に、マリンちゃんの歩くスピードが速くなった。知っている道だとわかったのだろう。もうすぐ家に着く! と喜び勇んでいるのがわかる。
瀬川さんの家の前に到着し、森巣がインターフォンを押した。電子音が鳴り、マイクを通して森巣が「夜分にすいません」と爽やかな口調で言って、名乗る。僕はぼーっとそれを眺めていたら、あることを思い出して、じわりと手のひらに汗が浮かんだ。
森巣には協力者なんていないし、犬の懸賞金の額を釣り上げている。
僕は、悪を恐れずに立ち向かえるのは、正義だけだと思っていた。だけど、そうじゃないのかもしれない。
玄関から瀬川さんが現れ、「マリン!」と叫び、嗚咽を漏らしながら犬を抱き上げた。犬も千切れんばかりに尻尾を振り回し、瀬川さんの顔をぺろぺろ舐めている。森巣は、彼らのことを作った笑顔で見つめていた。
森巣、君はいい奴なのか? 悪い奴なのか? とじっと見据える。
不意に、森巣が振り返った。視線が交錯する。
「秘密、守れるよな?」
森巣が悪魔のような、スマートな微笑みを浮かべた。
唐突に、頭の中でメロディが生まれた。初めての経験だ。
不穏で、それでいて僕を惹きつけるメロディが、頭の中で流れ始めてしまった。
(第一話おわり)