100万円ゾンビ(初稿−9)
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僕は口が固い。秘密は守る。だけど念押しで百万円をもらうような秘密はない……はずだ。
「内密にしてほしいみたいですよ」と僕は少し小さな声を発する。
「何を?」
「さあ」それしか言葉がない。
はっとし、それとなく背後を伺う。僕が何かを秘密を漏らさないか監視している人がいるのではないか、と確認する。飲食スペースは比較的空いてて、テーブル席に五人しかいない。親子三人と、カップル二人だ。
彼らは窓際から離れたテーブル席に座っており、外で起こった騒動にも気づいていないようだ。母親が子供の口についたパンくずを取ってあげているのが微笑ましい。カップルの方は彼氏の口元にパンくずがついていたが、彼女は何も言わなかった。だが美味しそうに頬張る彼氏を嬉しそうに眺めている。
この前のアップルパイの店のように、物騒な人間が紛れているのではないか? と警戒したけど今日はそういうことはなさそうだ。
「どうしたの?」と小此木さんから怪訝な声で訊ねられ、「誰かに監視されてないか気になって」と返事をする。
「平くんが秘密を喋るんじゃないかって?」
首肯する。だけど、僕に何を喋らないでいて欲しいのかがわからない。あのゾンビは僕に何の口止めをしたかったのだろうか?
「あのゾンビとは面識はなかったんだよね?」
「あんな変な知り合いはいないですよ」
変な知り合い、でぱっと思い浮かんだのは森巣だった。ゾンビでさえ来たのに、森巣は何故僕の演奏を聴きに来なかったのか、と思い出してむっとする、のを顔に出さないように堪える。
「じゃあ、平くんが二時間ベンチに座っている間に、何かを見ちゃったんじゃない? それで、向こうはヤバイぞ見られたぞと焦って、その口止料をギターケースに入れたとか」
「百万円以上のある何かなんて」と言いながら、記憶を呼び覚ます。思い浮かぶのは、日曜日を楽しむ人たちと、日曜日なのに働く人々だ。例えば、置き引きや誘拐、カバンを無言で交換するような怪しげな取引なんてものは、もちろん目撃していない。
「何か記憶に残っていることはないの? 駅前で見張っていたんでしょう?」と小此木さんが期待の眼差しを僕に向けてくる。
「いや、本っ当に、ただぼーっとしてたんですよ。それこそ、足元を歩く鳩を見て、首のところが綺麗な緑だなーとか考えてました」
「……鳩って」と小此木さんが不憫そうな顔をするので、「なんか、すいません」と謝りながら、「だけど」と疑問を口にする。
「何かを秘密にしたくて僕に口止料を払ったのに、どうしてあんな目立つ真似をしたんでしょうか? ふざけ過ぎていますよ」
ゾンビはあの強面の三人組から逃げたかったのではないかと思ったが、目立つ行動を取るのは矛盾する。それとも、僕にお金を押し付けて、あの三人組に捕まりたかったのか? 何故? わからない。
あ、と思い出したとき、小此木さんが「あ」と声をあげた。また「あ」が重なった、と思いながら目を向けると、小此木さんが自分のスマートフォンを見つめ、目を剥いていた。
「平くん、ゾンビが出たのは桜木町だけじゃないみたいだよ」
「横浜駅ですよね」
同級生の牧野から動画が送られて来ていたのを、すっかり忘れていた。小此木さんもその動画を見たのだろう。
だが、予想に反して小此木さんは「横浜駅?」と怪訝な顔をした。
「同級生から動画が送られて来たんですよ。横浜駅でゾンビが現れたようです」
「わたしが今ネットで見つけたのは、新横浜とセンター北と関内の駅前」
ほら、とスマートフォンを向けられる。身を乗り出して確認すると、鳥のマークで有名なSNSが表示されており、半裸の若い男が両手を伸ばしているいくつかの写真が投稿され、それに関する感想が賑わっていた。不気味がっている人もいれば、パフォーマンスを楽しんでいるような言葉も寄せられている。
「ゾンビパンデミッックが起こってるよ、平くん」と小此木さんが戸惑いの滲んだ声をあげ、スマートフォンの画面をスクロースさせる。たくさんのゾンビが画面内を蠢く。
「まさか」と言いつつ僕もスマートフォンを操作して、横浜で何が起こっているのかを検索する。映画のようにゾンビの大感染が始まった、そんなことはないよね、という不安を打ち消したかった。
しばらく二人でインターネットの海に潜り、互いに情報を漁り、確認したところ、人が人に噛み付いてウィルスに感染した、なんてことはなく、どちらかというと若者のたちの悪ノリパフォーマンスだと考えるのが妥当だということがわかった。
「フラッシュモブって前に流行ったじゃん、あんな感じなのかな」
フラッシュモブは知っている。友人知人や、ネットで呼びかけたメンバーが、町中で突然歌って踊りだしたりすることのことだ。町中でフラッシュモブをして、プロポーズの演出にした、という映像をテレビやネットで見たことがある。サプライズというのは、やる側は愉快かもしれないが、されたら戸惑ってしまうし、大勢の人を巻き込んで、と申し訳なく思う気がする。
「ゾンビたちは、ネットで注目を集めたかったのかな? 強盗ヤギみたいにさ」
「注目は集まりますけど、強盗ヤギみたいにお金儲けはできない気がしますよ。広告付きませんし」
「じゃあ、ただのゾンビごっこってこと?」
「そうじゃないですか? ゾンビごっこは百歩譲っていいとしても、公共の場所でやるべきじゃないですし、通行人に抱きつくなんてやり過ぎですよ」
「ハグだけで、女子供にはしていないみたいだけど、アウトだよね」
自分が見知らぬ半裸の男に抱きつかれたらと想像したらぞっとし、身震いが起きた。アウトもアウト、退場ですよ、と口を尖らせる。
退場、と思ったら自分もちょっと中座したくなった。トイレだ。
「ちょっとお手洗いに行って来ます」と小此木さんに告げ、席を立つ。トイレは店内にはなく、ショッピングモールの隅あるので、一度店を出て、トイレを探しながら廊下を移動する。移動しながらぼんやりと考える。
インターネットに自分の悪ふざけ、もとい違法行為の画像や動画が残れば、それは永遠に誰かの目に触れ続ける。会社員であれば解雇されるかもしれないし、学生であれば退学し、就職活動の際にも「お前、どこかで見たことがあるぞ」と一生恥がつきまとうのではないだろうか。ゾンビは死んで復活するが、社会的に死んでしまったら復活できるのだろうか?
「ねえ」
若気の至りだったのか、じゃあしょうがないね、と許すような社会じゃないのに、と嘆かわしくて深く息を吐き出す。
「ねえってば」
強い口調の声が聞こえたので振り返ると、そこには黒いパーカーにジーンズ姿で、顔にマスクをした女性が立っていた。焦げ茶色に染められた髪は後ろで結われている。ちょっとコンビニに行くような格好だった。
知り合い、ではない。
「あんたよね? あたし、見てたんだけど」