天国エレベーター(初稿−13)
13
拘束された滑川は動かないが、じっと目を凝らして見ると、わずかに胸が上下しており、呼吸しているのがわかり、ほっとする。
「よかった、生きてる」
「だが、直に死ぬ」
氷のように冷たい口調にはっとして森巣を見る。彼はじっと滑川を、まるで静物を見るような目で眺めていた。もうその目に憎しみの色がないことに、不安になる。
「どういうこと?」
「食堂で話していた女医がいただろ? あいつを呼ぶ」
森巣をナンパしていた人、ではないよな、とうっすら思っていたけど、何者なのか見当がつかない。「あの人が、何をするわけ?」
「あいつが清掃カートを持って来て、滑川を詰めて他所の病院に運ぶ」
「どうして」
「前に話しただろ? 時間をかけてやってくれる専門業者がいるって」
なんの話だ、と思い返しながら、昨日食堂で森巣がそんな物騒な話をしていたな、と記憶が蘇る。
「転院先の病院では、腕の良い麻酔科医と腕の良い外科医がいてな、手術中に中途覚醒をさせるらしい。自分の体が切られ、バラされていくのを、滑川はゆっくり時間をかけて味わうことになる」
恐ろしい言葉が森巣の口から軽やか飛び出て来るので、冗談かと思った。が、海老原少年が話していた病院の怖い話を思い出す。悪い患者が夜な夜な清掃カートで運ばれて行く、というあれだ。
眉唾話だと思っていたこと、冗談だと思っていたことの輪郭が浮かび上がり、化け物じみた実態を浮かび上がらせ、目の前に立ち塞がる。その獰猛さにおののき、呆然としてしまう。
「そんなこと、できるわけがない」
「ああ、だから大金を払ったよ」
「大金って……この前の、弾き語りの百万とか?」
「あれだけじゃ頭金にもならないくらいだ」
森巣がそう言って頬を緩める。それは、とても邪悪な笑い方だった。
「森巣、だめだ、それは」
自分の中から、声を絞り出す。
「だめだよ、それは」
「平はきっと反対すると思っていた。だから、黙ってたんだ」
森巣が、物分かりが悪いな、と言わんばかりにむっとする。
「わかっているなら、説明する必要はないよな。人殺しはダメだ」
「どうしてだ。こいつは、いなくなった方がいいクズだ。この手帳をお前も読んでみるといい。こいつのビジネスとやらが、細かく書かれているぞ。腐り切ってる。強盗、強姦、殺し、子供も女も老人も、たくさんの動物や人間がこいつの餌食になってるんだってことが、平にもわかるはずだ」
そう言って、森巣が手帳を僕の方に放る。が、僕はそれを開かない。
「滑川がどうしようもないクズだってのはわかる。だけど、僕にとって重要なのはそこじゃない。君が人殺しに加担するのはダメだって話してるんだ」
「どうしてだ」
「僕が嫌だからだ」
わからないのか? と話を続ける。
「人を殺しはいけない理由を、君に上手く説明する自信はないよ。森巣は僕よりも頭が良いから、きっと僕のことを論破できるだろう。でも、違うんだ。理屈じゃないんだよ。僕は、君が人殺しになったら、やりきれなくて、どうしよもなく悲しいんだ」
「感情論かよ」
「感情論だよ」
森巣が鹿爪らしい顔をし、僕から視線を逸らした。心がかき乱されているのは、僕も同じだ。
「警察に通報して、ここを出るんだ。ルールの外にいるつもりだった自分が、司法で裁かれるのは、きっと滑川には屈辱だと思うよ」
「でもな」
「毎回、君は気にくわない奴を殺していくつもりなのか? そんなことに僕は付き合えないぞ」
森巣が表情を曇らせ、僕を睨む。
「君は今日のことも、一人で進めようとしたね。どうしてかはわかる。結果が大事だと思ったからだろ。滑川を倒すっていう結果だけを見たんだ。だけど、結果が全てじゃない。僕はもっと頼ってもらいたかったよ。君は警察に守られなかったって言ってたね、だから周りを信じていないのはわかる。でも、僕のことをただの目だと思ってるなら、僕らは本当に終わりだ」
そう告げた瞬間、森巣の顔が少し青褪めたように見えた。
が、すぐに険しい表情になったので、見間違いかもしれない。
森巣が何かを言うかと待ってみるが、ずっと押し黙ったままだ。このままここにいても、もうかける言葉はない。僕が自分の正義を決めたように、森巣にも森巣の正義があるのだろう。
正義の矯正はしたくないが、同じ道をしばらく歩いて行きたいとは願っている。
「僕は展望室にいる。警察に通報したら来てくれ。そうじゃなかったら」
そう言って、僕はふらつきながらも椅子から身を起こし、図書室の出口へ向かう。
扉に手をかけ、
「僕も、君がいなくなったらつまらないと思うよ」
そう言って図書室を後にし、廊下に出て、エレベーターに乗った。
ぐんぐんと上がるエレベーターは、このまま僕を遠くの世界まで運んで行くようだった。
ふーっと息を吐きながら、そういえば森巣がこんなに考え方の違う僕と事件の調査をしようと思ったのかも訊けばよかったな、と思った。
何故だろうか。
ポーン、と電子音が鳴り、エレベーターの扉が開く。
展望室、と言う呼び方は大仰な感じがする小さな空間に到着する。ガラス張りの壁からは、横浜の夜景が見える。学校はどの辺りだろうか。犬を探した辺りはどの辺りだろうか。強盗ヤギと遭遇した喫茶店はどの辺りだろうかと探す。ゾンビ大学生が来た桜木町は、ランドマークタワーのおかげですぐにわかった。
骨折が治ったら、今度こそ森巣に僕の曲を聴かせてやりたい。どんな顔をするか見てみたい。
意を決して、夜景に背を向けてエレベーターを見つめる。
森巣、どうか来てくれよ、と念じながら見つめる。
森巣が来たら、何て言ってやろうか。
ありがとう? 夜景が綺麗だな? 五円玉を返せ?
そんなことを考えていたら、頭の中で伏せられていたカードがあることに気がついた。
森巣は、どうして滑川が絶対に明日仕掛けると思っていたのだろうか?
森巣は「毎年必ず思い出す」と言っていた。なんでもない日に毎年思い出すものだろうか。そう言えば、今月はケーキは絶対に食べないと食堂で話していたな、と思い出す。
ふわりとカードが捲れた。
明日は、森巣の誕生日なんじゃないのか?
もし滑川に負けたら、自分の誕生日に毎年僕のことを思い出すことになる。それに、酷い家庭で育ったと言っていたから、誕生日ケーキという習慣に抵抗があるのかもしれない。
腹の底で、くすぐったさのようなものを覚えた。
森巣良とは何者なのか?
正直なところ、全然わからない。良い奴なのか、悪い奴なのかも判然としない。でも、それでいいと思っている。わからないけど、いないと寂しい。天使のような顔をして、悪魔のようにスマートなあいつは、意外と人間臭いということがわかった。
「誕生日おめでとう、ケーキでも食いに行こう」そう言ってやろう。
そう決めてエレベーターを見ると、いつの間にか階数表示のライトがぐんぐんと上昇してきていた。
どうか、警備員の巡回じゃありませんように。
爪が食い込んで痛くなるほど、力強く両手を握りしめる。
ピポーン、と到着を知らせる音が鳴り、扉が開いた。
(了)
【参考文献】
『モラルの起源 実験社会科学からの問い』岩波新書(二〇一七) 亀田達也