百万円ゾンビ(2稿−11)
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僕と彼の間には、見えない壁がある。彼は、透明の壁の存在に気づくと首を傾げ、不思議そうに空中を叩いた。この見えない壁を回り込めるのではないか、と手のひらで壁を触れながら少しずつ横にずれていくが、終わりが見えてこない。
どこまでもどこまでも、永遠に見えない壁が続く。
遠くからではわからなたかってけど、目の前に立つと瞼の上から縦に引かれた線や、頬に描かれた涙のマークが見え、メイクにも気合が入っていたんだなと感心してしまう。
桜木町の駅前広場、僕の弾き語りと入れ替わりで、彼はずっとここにいた。
「さっき、ゾンビが僕に渡してきたんですけど、これ、あなたにだったんですね」
札束の入った封筒を、ピエロに向けて掲げる。
ピエロは声をかけられて固まり、まじまじと僕を見てきた。
無言で何かを確かめ合うような沈黙が生まれ、しばらくしてからピエロの纏っている空気が変わった。
「やあ、戻って来てくれたんだ」
想像していたよりも若く、そして穏やかな声だった。野原にでもいるような朗らかさがある。
どうして僕は大金を渡されたのか、その答えはシンプルなものだった。
「人違い、だったんですか」
「そうなんだよ。遅れちゃったからさ、君がいたおかげで助かったよ」
「秋山には何て指示をしてたんですか? 僕とあなたは似てないと思うんですけど」
「駅前広場のパフォーマーに金を渡せ」
ああ、と納得の声が漏れる。
「ぼくが遅れたせいで、君のところに行っちゃったんだ。ごめんね、驚いたたでしょ」
ピエロは素直に、出来事の裏側を認めていく。悩んでいた時間は一体なんだったのか、と拍子抜けする。
秋山は、僕に接触したかったわけではない。封筒に入った「内密に」と、書かれた文字は手書きではなくプリントアウトされたものだった。僕に何かを見られたから準備した、というわけではないと森巣に指摘される前に気付くべきだった。
何故、秋山はゾンビごっこをしたのか。
それはやはり、脅されていたからだ。
では、ゾンビは誰から、何故脅されていたのか。
森巣は詳しいことはピエロに聞け、と言った。
「ニュースになっていましたね。あれが関係しているんですか?」
「ニュース?」
「女子大生に借金を背負わせて、風俗店で働かせていた男が逮捕されたって」
小此木さんがスマートフォンで見つけた、嫌なニュースだ。
「そうそう。そういうことをしてるグループがあってね。仕返しするのが目的だったんだよ」
「仕返し、ですか」
「うん。友達が恋人だと思っていた秋山にぼったくりバーに連れて行かれて、払えないなら体で稼げって店を斡旋されてね。話を聞けた時にはもう、ぼろぼろになっていたよ。びっくりだ」
淡々と語れる言葉の中に、心が重くなるものがあり、眉をひそめる。どうして世の中には、平気で他人を食い物にできる人がいるのか。
「ぼったくられたって警察に相談はしたんですか?」
「無駄だったよ。店は正規の料金だって言い張るから、平行線になるんだ。そうなると、警察は『民事だから裁判してくれ』って言ってお終い。正義の味方は助けてくれないもんだね。まあ、一度起きてしまったんだから、警察がどうしようとぼくには関係なかったんだけどさ」
「関係ない?」
「仕返しなんて、どうせ自己満足なんだから、自分でぎゃふんと言わせないと意味ないんだ」
開き直りに似た答えは言い訳を並べるよりも清々しくて、ぎゃふんという言い方は控えめすぎではないか、ということの方が気になった。
「で、あなたは何をしてたんです?」
「悪行を世間にばらされたくなかったら、金を払うか恥をかけって要求したんだよ。これから就職活動を始める前途洋々な若者にたっぷり後悔しながら生きてもらいたかったからさ。で、ニュースになっていたのは、見せしめの一人。相手にしてもらえないと困るからね」
見せしめ、は効果的だっただろう。ふざけた脅迫だ、どうせ口だけだ、と仲間内で言い合って安心していたけど、相手が本気だとわかり、秋山は今日に臨んだ。でも、疑問がある。
「秋山はお金も払ったし、ゾンビの真似をしましたよね?」
「あー、なんでだと思う?」
ピエロは興が乗った様子で、そう言うと腕を組んだ。ピエロの衣装のせいで、滑稽な芝居に巻き込まれている気恥ずかしさを覚えつつ、真剣に答えてみる。
「反省しているから、お金も払うし、恥もかかせて下さい、と思ったとか」
「本気で言ってるなら、君は良い人だね。でも残念ながらあれは、単に渡す相手を間違えたからやってもらったんだよ。ぼくじゃなくて、君に渡したからさ」
「自分が遅れて来たくせに」と指摘する。
「まあね。ぼくは良い人じゃあないし。ゾンビやってもらって悪いけど、人違いだから金も払えって電話したら、騙したのかってすごい怒ってたよ」
ピエロがイタズラがばれたみたいに頬を緩めた。人を脅迫する犯罪者と対峙しているのに、この緊張感のなさはなんだろうか。気さくな上級生と話をしているような気になる。
「あのいかつい三人組は一体誰なんです?」
「あれは警察」
「警察は頼らないって言ったくせに」
舌の根が乾かぬうちとはまさにこのことだ。
「金を取られて、恥もかかされて、逮捕される、踏んだり蹴ったりだろうね」
ピエロはそう言うとおもむろにポケットに手を入れ、何かを取り出した。それを口元にやり、ふーっと息を吹き込むと、長い筒のように伸びていき、風船と気づく。彼は、見事な手際で、すいすいと風船を丸めたり捻ったりし、あっという間にプードルを作り上げた。
振り返ると、小さな女の子が立っていた。花柄のワンピースがよく似合う。ピエロがしゃがみ、それを女の子に手渡す。
「ありがとう!」と女の子は笑顔になり、少し離れた場所で立ち話をしている母親の元へ駆けて行った。あの子が、これから大人になり、悪い男に騙されて、お金を奪われたり、したくもないことをさせられたりするのかもしれない、と思うと、途端に暗澹たる気持ちになった。
「結構上手いもんだろ」
ピエロが不安を吹き飛ばすような陽気な声を出す。彼は鷹揚で優しい人に見える。友人の為に一矢報いたかったという気持ちもわからないことはない。
この人は、根っからの悪人ではないのかもしれない。
「それでも、見逃せないことがあります」