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百万円ゾンビ(2稿−9)

      9

 マスクをした見ず知らずの女性から「見てた」と言われた。

 何を? 慌てて頭の中で、記憶の蓋を引っくり返して回る。「内密にお願い致します」というゾンビからの手紙を思い出す。もしかしてこの人は僕が何かの秘密を漏らさないでいるか監視しているのではないだろうか。

 警戒しながら立ち止まっていると、金髪女性はマスクを下にずらして笑顔を見せ、軽快な足取りで近づいてきた。まだ二十代前半くらいだろうか。化粧は薄く、つるりとした綺麗な肌をしている。素顔を見せることで、こちらに気を許してくれたような気がしたけど、僕は誰だかわからず、体が強張った。

「やるじゃん、最高だったよ」

 得点をあげたチームメイトを迎えるような、友好的な笑みを浮かべている。そこでやっと、相手が何を言っているのかわかった。照れ臭く、僕もぎこちないけど笑顔を作りながら「ありがとうございます」と伝える。二人を繋いでいる緊張の糸がふっと緩むのを感じた。

 僕の弾き語りを聴いていて、それで声をかけてくれたのだ。

「すっきり爽快だった。っていうか君、結構若くない? すごいね」

 足のつま先から頭までを、何往復か品定めをするように眺められ、もじもじする。高校生が弾き語りをしていたのが珍しかったから、見物しくれていたのかもしれない。

 だけど、ここで疑問が浮上してきた。金髪女性に見つめられるのでこちらも観察をする。弾き語りをして十人が集まってくれたけど、彼女はその中にはいなかった。

「弾き語り、聴いてくれてたんですか?」
「ああ、うん、見てたよ。歩道橋の上から」

 JRの桜木町駅東口を出たらすぐのところに、歩道橋が伸びている。演奏していたとき、歩道橋を背にしていたから、気がつかなかったのだろう。見守ってくれている人がいたのは素直に嬉しくてはにかんでしまう。

「あの、演奏はどうでした?」
「聞こえなかったよ。遠いし」

 さっぱりとした口調で言われ、「え?」と困惑する。

「じゃあ、歩道橋で何をしてたんですか?」
「だから見てたんだって」

 当たり前のことをどうして聞くのか? と言わんばかりだった。

「高みの見物をしていたわけですね」

 つまらない冗談を言ってしまった、と思ったけど、金髪女性は「そうそう、それそれ。まさしく」と目を細め、八重歯を覗かせた。体を揺すり、なんだかはしゃいでいる。

「あいつあたしに泣きついてきて、傑作だったんだよ。知るかっつうの死ねって思ったわ」

 穏やかじゃない言葉が飛び出してきたので、眉をひそめる。
 あいつとは誰のことか僕が訊ねるよりも先に、女性が右手をこちらに向けてきた。握手、というわけではなく、名刺が差し出されている。

 曖昧に頷きながら受け取り、確認すると、
『株式会社ライフナビゲーション 営業一課 大宰治』
 と書いてあった。かの文豪と一字違いだ。

「そいつも、まじ人間失格な奴なんだわ」
「恥の多い生涯なわけですか」
「恥だらけだよ。で、恥を恥とも思ってねえ腐ったゴミみてえな奴。女の敵のサイコクズ野郎」

 罵詈雑言の肩書を持つ大宰治氏の名刺を受け取ったが、僕はどうすればいいのかわからない。

「で、この大宰さんがなんなんですか?」
「そいつもね大学生の時に散々酷いことをしていた癖に、今は就職して有名な会社に入ってのうのうと生きてるわけ。許せないっしょ? 憎まれっ子が羽ばたいてるわけ」
「羽ばたくじゃなくて、憚るですよ」
「それ、どっちでもよくない?」金髪女性は体から怒りを発憤しているみたいに鼻息を荒くしている。迫力に呑まれながら、ですね、と返事をする。どっちでもいいです。
「でも、あの、言いにくいんですけど、それが僕とどんな関係が?」

 金髪女性が眉を歪め、軽蔑するような目線を僕に向ける。関係があるのか? という言い方がまずかっただろうか。子供に暴力を振るう大人や嘘をつく政治家と同様に、女泣かせの男も一緒に憎んであげれば良かったのか。

「やっちゃってよ。さっきみたいにさ」
「弾き語りをですか?」
「ボケてんの?」
「真剣ですけど」と言ったけど流された。
「電話のタイミングも完璧だったっしょ。次も協力するからさ。やっぱ、金払ったから許されるって思われんのムカつくし、ガンガン地獄に落とそう」
「どうしてお金のことを知ってるんですか!?」

 思わず、大きな声を出していた。封筒の中身がお金だということは、僕と小此木さんと、封筒を入れたゾンビしか知らないはずだ。

「は? ちょっと待って。え? だって君、金を受け取ってたでじゃん」
「実はあなたが何を言っているのか、さっぱりわかってないんですよ。教えて下さい。あの電話ってなんのことですか? お金とゾンビ男は一体なんなんですか?」

 相手の怒りを買わないように、おそるおそる差し出すつもりで疑問を口にする。
 金髪女性は僕が冗談を言っていると思ったのか、笑顔を苦笑に変えた。
 だが、僕が無言でいると、彼女の表情に当惑の色が滲んだ。怪訝そうに眉根に皺を寄せ、顎を引き、じっと僕を見つめている。

「ボケてんの?」
「真剣ですよ」とこれ以上ないくらい真面目な口調で答える。

 僕らを繋いでいた見えない糸が再び、ぴんっと張るのがわかる。千切れるのでは? と不安になるほどだ。金髪女性が頬を引きつらせ、口元に手をやる。しばらく逡巡するような間を置くと、回れ右をし、そのままゆっくりと歩き出した。

 あまりにも自然な動作だったので、ぼうっと見つめてしまった。去っていく背中に向かって、あの、まだ話の途中なんですけど、と呼び止めようとしたその瞬間、金髪女性は地面を力強く蹴った。

 陸上競技のような綺麗なフォームで走り出し、小さくなっていく背中を見つめながら、はっとする。逃げ出したのだと気づき、慌てて後を追う。

 彼女は百万円がなんなのかを知っている。それだけではなく、男がゾンビのふりをした理由も知っている口ぶりだった。

 絶対に逃すわけにはいかない。

 日曜日の人混みをかき分け、ショッピングモールを抜ける。隣接している桜木町駅へ向かって金髪女性を追って駆け抜けた。

 そして、閉じる改札と、ホームへの階段を駆け上がる彼女を、見送った。
 絶対に逃すわけにはいかなかったけど、逃げられた。

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